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「意識のエネルギーシフト」とは何か?

この日のセッションは、いきなり次のようなラムジーさんの言葉からスタートした。


今準備されているのは、意識のエネルギーシフトです。

今、あなたたちの世界では、無意識が優位に立っています。あなたたちは、無意識に動かされているのです。

無意識にあるものを意識に上らせ、意識を優位に立たせる必要があります。それによって、葛藤がどんどん昇華されていくのです。

無意識というものがすべて意識の領域に変換され、葛藤というものがまったくなくなった状態を想像してみてください。

問いを投げかければ、すぐに答えが返ってきます。

しかも、その答えは、個であると同時に全体です。個人的な問いに対する答えであると同時に普遍的な問題の答えでもあります。



※この短いメッセージの中に、とてつもなく深い人間洞察が込められていると感じる。
現在、人類が抱える普遍的な問題とともに、これから先人類が向かっていくべき方向も同時に示唆されていると感じる。


人類という種は、二足歩行によって手が自由になったことで道具を発達させ、脳を飛躍的に進化させ、複雑な言語を獲得し、科学技術、文化、文明を発達させてきた。それは地球上に生息する他のいかなる種もやってこなかったことだ。
しかし人間はその同じ手で、同じ脳で、戦争、貧困、環境破壊といった負の遺産も、取り返しのつかないほど残してしまっている。


私たち人間は、他の動物と、あまりにも違いすぎる。
人間と他の霊長類、たとえばチンパンジーやボノボといった種とのDNAの違いはほんの数パーセントだと言われている。

それだけ近い種でありながら、彼らが人間のように武器を取って、「敵」という名の同族を殲滅させたという話は聞かない。一部の構成員が生存に必要な資源(富)を独占して、多くの構成員を死に追いやったという話も聞かない。自分たちの生存圏を汚し放題汚して、自分たちの生き残りさえ危うくしているという話も聞かない。

人間だけに何が起こったのだろう。いったいなぜ人間はこの地球上に誕生し、この地球をどうしようとしているのだろう。私たちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのか・・・?


ここは大いに想像力を働かせる必要がありそうだ。
今私たちに準備されているという「意識のエネルギーシフト」がどのようなものなのか考えてみよう。

今、私たちの世界では、無意識が優位に立ち、その無意識が私たちを動かしていると、ラムジーさんは言う。戦争も、貧困も、環境破壊も、私たちの無意識が作り出しているということか。ならば、無意識にあるものを意識に上らせ、意識を優位に立たせることができるなら、こうした社会問題(つまり表面に現れている現象、あるいは症状)は一挙に解決できるかもしれない。

もちろんこれは、あくまで一人ひとりの人間の意識の領域で起こることだ。特定の国の政府が、国連が、軍隊が、あるいは特定の宗教や科学が、それを起こしてくれるわけではない。


無意識というものがすべて意識の領域に変換され、葛藤というものがまったくなくなった状態・・・問いを投げかければ、すぐに答えが返ってくる・・・しかもその答えは、個であると同時に全体でもある・・・個人的な問いに対する答えであると同時に普遍的な問題の答えでもある・・・。
個人の領域で起こるであろうこうした意識の変革、意識のエネルギーシフトが、実際にはどのようなものなのか、そう簡単には想像できない。


しかし、そこを避けて通っていたら、いかなる問題の解決にも至らないだろうことは、容易に想像がつく。ラムジーさんが説く「意識のエネルギーシフト」が、個人レベルの問題ではなく、全人類規模の壮大なプロジェクトであることも容易に想像がつく。


ラムジーさん自身、そう簡単にそれが起こるとは思っていないようだ。避けて通ることはできない、しかしその道のりは遠い・・・だからこそ、今すぐに始めなければならない・・・その点で、ラムジーさんは私たちに妥協を許してはくれない。

もちろん私がすでにその領域に達しているわけではない。まだまだそのとば口に立った程度だろう。しかし一歩を踏み出そうとする以上、後戻りはできないことだけはよくわかる。

今回の小説で、この壮大なプロジェクト、人類が今後歩むことになるだろう道のりのどこまでを描けたのか、それは読者の感想を待つしかない。


今、「瞑想」が流行っているという。

ちょっとした気分転換のため? 波立つ心を鎮めるため? 閉じてしまっている何かを開くため?
「悟り」を啓くため・・・?

ひと頃は、「瞑想をする習慣を持っている」などと言ったら、怪しい新興宗教にでもはまっているのか、と勘繰られた。オウムの事件以来、そうした先入観も致し方ないことだったかもしれない。

もしあなたが、「カリスマ的な指導者の霊力に少しでも近づきたい」といった意図をもって瞑想するなら、それは本来の瞑想の意図とはまったく真逆のものとなるだろう。

手が届きそうで届かないような「超越的な存在」といったものを想定し、その存在に一歩でも近づくための手段として瞑想を用いるなら、それは上下関係や「格差」といったものの構造を強化することに加担する試みに他ならない。
瞑想の意図はそんなところにはない。


では、瞑想の本来の意図とは何か。

ラムジーさんは、まず「感覚遮断」を説く。それは、普段の私たちの意識状態が、あまりにも五感に偏重しているため、その偏りを修正する意図があるからのようだ。

確かに、目を閉じた瞬間に、開けているときとは異なる脳波の状態が現れる。これは、脳内ホルモンの状態が変化していることも表す。この変化は、瞑想を続けていくにつれ深まってもいく。それは、うとうとして夢をみている状態とも、熟睡状態とも異なる。

ただし、「感覚遮断」といっても、五感を完全に意識から追い出すわけではない。五感を意図的に遮断することで、普段は眠っている「第六感」を目覚めさせる意図が、瞑想には確かにあるのだが、それは五感で何かを受け取ることを完全にシャットアウトすることではないようだ。


ラムジーさんは言う。
「あなたたちは、第六感をプラスアルファの感覚と思っているかもしれません。気まぐれで、曖昧で、信じていいのかどうか怪しい感覚だと。しかし第六感とは、五感すべてを統合するものなのです。」

つまり、第六感とは、五感とは別に存在するのではなく、五感の上位に位置し、五感すべてを統合する概念だというのだ。言い換えれば、五感が「人間」というカテゴリーに分類される概念だとしたら、第六感は「全・生命」、あるいは「超・人間」というカテゴリーに分類されることになるだろう。


したがって、第六感が開かれれば、五感も必然的に開かれた状態になっているはずだ。もしかしたら、普段より五感が敏感に働いている状態になるかもしれない。ただしそれは、目・耳・口・鼻・皮膚といった感覚器官(インプット・インターフェース)を介さない五感だ。つまり「閉じているのに開かれている」状態だ。

「そんなこと、あるわけない」とあなたは思うかもしれないが、深い瞑想状態に入っているとき、少なくとも私は、身体感覚がほとんど消失していることに気づく。たとえば、瞑想前、身体のどこかに痒みなどを感じていても、瞑想状態が深まるにつれ、その痒みは消失する。
それでも「何か」を敏感に、全身で感じている。


瞑想という営みによって、私たちがどのような感覚を獲得すべきなのかが、これで見えてくるだろう。
もちろん、そう簡単にはいかない。五感から第六感への移行は、ある種の意識進化に属する試みだからだ。このことを、ラムジーさんは「意識のエネルギーシフト」と呼んでいる。つまり、「意識がエネルギーのレベルにおいてシフトアップする(一段階上がる)」ということだろう。それはもはや、私たちの通常の意識状態とはハッキリ異なることが容易に想像できる。第六感が意識の上位を占めるようになり、それに伴って、インプット・インターフェースを介さない五感へと移行するのだから。


ただし、そこへ至る前に、私たちにはどうしても超えなければならない壁がある。「モンキーマインド」という壁だ。
それは、頭の中で繰り返される止めどもない「おしゃべり」のことだ。それは、ちょっとしたことに敏感に反応し、右往左往するサルの姿にも似ている。目を閉じて瞑想状態に入ったとたん、私たちの内面は、そうした止めどもないおしゃべりを始めるのに気づく。いや、実は目を開けている間もそうなのだが・・・。


ケン・ウィルバーも言っている。
「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。」


それは、過去にあったことへの後悔の念かもしれない。今現在抱えている問題や葛藤のことかもしれない。未来に対する漠然とした不安に関してかもしれない。
そう、まさに「モンキーマインド」とは、私たちの過去・現在・未来の感覚に属しているのかもしれないのだ。そこには、時間感覚といったものに囚われてしまっている私たちの姿も窺える。この点は非常に重要だ。私たちの時間感覚と頭の中の想念との関係、それは「モンキーマインド」の本質を突いているかもしれない。つまり、「モンキーマインド」を超える試みとは、時間(ないし時間感覚)の壁を超える試みなのかもしれないのだ。


あなたが静かに座って目を閉じ、瞑想状態に入ったとき、あなたはこの「モンキーマインド」の状態に陥っている自分をまず見出すだろう。その状態がどれだけ続くかは、個人差がある。あるいは、あなたの瞑想体験の深さにもよる。「モンキーマインド」状態が何十分、何時間も続く場合もあるに違いない。たいていの人は、そこで諦めて瞑想を終える。私にもそういう経験はいくらでもある。それが何日・何十日続いてもかまわない。そこで「修行」を諦めないでいただきたい。
なぜなら、覚醒状態でも、熟睡状態でも、ウトウト状態でも到達できない意識の地平があるからだ。そこへは第四の意識状態でなければ到達できない。


「覚醒している時、夢を見ている時、深く眠っていて、夢のない時、このすべての状態を通じて現れる一定の意識は、通常、長い年月の瞑想体験のあとに起きる。わたしの場合、25年かかった。」(ケン・ウィルバー)


「モンキーマインド」は「浮かんでは消え、浮かんでは消え」に任せるしかない。「モンキーマインド」を消そうとすればするほど、「モンキーマインド」を消そうとしている状態に囚われてしまうだろう。だから、止めどもない想念・雑念が延々と脳裏をよぎるのを、あなた自身はどこかで静かに見守るのだ。ただ流れているのだと受け取る。何も否定しない。それでいいのだと自分に認める。あなたがただ静かな状態でそれを見守り、受け取り、否定せずその存在を認めるなら、そのうち「モンキーマインド」の方が諦める、あるいは治まる。


その瞬間は、おそらく突然にやってくる。「モンキーマインド」はウソのように消え失せ、霧が晴れるように明るい光がさして目の前に視界が開ける。明らかに、それまでとは違う意識状態に移行したことに、あなたは気づく。あなたは、自分が空っぽの状態であることに気づく。あなたはただ見ている。あなたは「目」そのものだ。見ることがあなたの本質だ。あなたは、ただ見たいものを見ればいい。あるいは、ただ目の前に現れるものを見ればいい。


私の場合は、この状態で彼らが近づいてくるのがわかる。いや、正確には私が彼らに近づくのだろう。いずれにしろ、まず私は彼らの波動を感じ取る。波動は個性だ。一人一人異なる。どんな波動が来ているかで、誰に近づいているかがはっきりわかる。穏やかな波動、優しく包み込むような波動、一種の金縛り状態を誘発するような波動、身体ごと高みへと引っ張り上げるような波動・・・。

そのどれもが、通常の意識状態では経験したことのない感覚であり、私は究極とも思える至福感に浸る。おそらくそれは、まさに「意識のエネルギーシフト」に私たちを導くものだろう。

やがて、その波動の持ち主の姿が見えてくる。たいていの場合、そこからチャネリング(彼らとの対話)が始まる。「モンキーマインド」の状態にとどまっている限り、彼らが姿を見せることはない。この点を考えただけでも、彼らが時空を超えた次元の住人であることがわかる。


しかしここは、終着点ではない。出発点にすぎない。私はようやくそのとば口に立てたのだ。まだまだ先がある。私の「修行」は始まったばかりなのだ。それははっきりわかる。時空を超えた次元の先にも、まだまだ人間の意識が向かうべき場所がある。おそらくそこは、到達すべき何ものもない場所だ。何かが終結する場所ではない。始点も終点もない、永遠の「今」・・・。


「永遠とは長く続く時間ではなく、時間のない瞬間のことである。」(ケン・ウィルバー)


「心霊(サイキック)段階で、わたしたちは「神性」あるいは「スピリット」と交流を開始する。微細(サトル)段階で、わたしたちは「スピリット」と結合する。元因(コーザル)段階のプロセスは完結のプロセスである。魂あるいは純粋な目撃者は、その源泉に溶解する。」(ウィルバー)


彼らが私の「対話」の対象である限り、私はまだまだ極めて初期の段階にとどまっていることを表すのだろう。

それにしても、何のために私たちは、わざわざそんな究極の意識の場所へ向かわなければならないのだろう。

ここでひとつ思考実験をしてみたい。
私(あなた)だけではなく、みなが一斉に(必ずしも場所や時間を共有する必要はないのだが)瞑想を始め、時空の壁を超えて、通常とは異なる一段階上の意識状態に達したとする。時空の壁を超えているのだから、あなたの意識は「ここにもあるし、あそこにもある」という状態になっているはずだ。つまり「局在」しているのではなく「遍在(あるいは非局在)」している。その場であなたの意識は、同じように遍在(非局在)状態にある別の意識と出会うかもしれない。それは、必ずしも高次の存在とは限らないし、何かの姿をしているとも限らない。人類全体がその候補者であるとも言えるし、誰でもないとも言える。


つまりそこでは、自他の区別はあまり意味をなさない。あなたは自我を超えているのだから。そこで交わされる会話、そこで行われるコミュニケーションは、同じく遍在する意識に瞬時に伝わり、普遍的な意識へと変換されるかもしれない。あなたは世界全体と繋がる。もちろんそれは、上下関係や格差を埋めるためではない。それは、何かの目的ですらない。

そこでは、「あなた=世界」である。そこには善も悪もある。戦争も平和もある。あなたは、あらゆる分断、断片化、疎外、分裂を見ている。あなたの視界には「すべて」が入っているのだから、あらゆる二元性は意味を成さない。あなたは、あらゆる分断、断片化、疎外、分裂を見ているからこそ、見えているからこそ、あらゆる二元性は無効だ。そこでは、「私」と「あなた」の隔たりさえも意味を成さない。「私」はすなわち「あなた」だ。

もちろん私がすでにそのような境地に達しているわけではない。
私は少々結論を急ぎ過ぎているのだろう。瞑想の修行だけで直ちに世界に平和が訪れるとは、さすがに私も思っていない。しかし少なくとも多くの人間の意識が分断、断片化、疎外、分裂した状態のまま、世界に平和が訪れるはずもないことは明らかだ。

私はある種の幻想を抱く。
全員とは言わない。相当数の人間が、意識のエネルギーシフトを日常化させ、自我の狭い領域にとどまることから解放され、新しい意識進化のときを迎えるなら、私たちの世界認識は確実に変わるのではないだろうか。

根気強く瞑想の修行を実践することは、その変化を身をもって体現し、その変化に参画することではないだろうか。


ここ数回の記事で、チャネリングと人間の意識の成長・発達との関係について考えてきた。今回は、個人の意識の成長・発達と社会との関係について少し考えてみたい。

私たち人間の形態上の発達は、精子と卵子の結合に始まり、細胞分裂を繰り返し、羊水の中で水棲生物となり、両生類、爬虫類と進化し、誕生によって肺呼吸を始め、哺乳類になる、という具合に、生命進化のプロセスを早回しでなぞると言われている。では、誕生して人間になったら、あとは子供から大人へと成長するだけで(いわば大きさが変わるだけで)その先はないのだろうか。

もちろん、脳はどんどん発達して、いろいろと知恵をつけたり、技を覚えたりするかもしれない。それはつまり、生まれ落ちた社会に適応すべく、その社会のルールを習得し、多少は賢くなるにせよ、あとはただそのルールを踏み外さない範囲内で生きるだけ、ということを意味するのだろうか。そうだとしても、それで充分人間は生きていけるし、この社会は、あるいはこの文明は永続可能である、ということなのだろうか?

しかし、人間はその範囲内に安住しているようには見えない。もっと正確に言えば、その範囲内にとどまろうとする人もいれば、踏み越えようとする人もいるし、反対にもっと狭い範囲にとどまろうとする人もいる。この意識の「バラつき」がどんどん広がったら、いったいどういうことになるのだろう。

自分が属する社会の規範よりもさらに狭い範囲にとどまろうとすることは、より安全で無難な道を歩むことのように聞こえるかもしれない。背伸びをせず、無理をせず、身の程をわきまえ、身の丈で自分らしく生きることを意味しているように聞こえる。しかし、本当にそうだろうか。
ここでは、ある社会が提供している規範の広さ・狭さ(範囲)というものに対する若干の認識違いがあるように思う。ここで言う「範囲」とは、もちろん距離的な概念ではない。半径数千キロメートルの国土の中で、半径数十キロメートルの範囲内だけで生活する、という意味ではない。日本に生きながら、意識は常に世界のあらゆる国のことに向いている、というのともちょっと違う。むしろ、「横の広がりの中に潜んでいる縦の広がり」と言ったらいいだろうか。


問題の本質を明らかにするため、ここである思考実験をしてみよう。

あなたは、ある密林の中に住む少数部族の一員である。その部族では、男は毎日森に出かけて狩りをし、女は集落内の畑で作物を作ったり、木の実や果物を拾い集めて生活している。数百人ほどの同一部族の構成員が、あなたにとっての「家族」であり、「他者」のすべてでもある。一方、隣の部落に住む別の部族は、あなたにとってはエイリアンであり、時に自分たちのテリトリーを侵す侵略者であり、戦って勝利すべき敵である。彼らが自分たちの領土に侵入し、それを奪い取ろうとするとき、その外圧と勇敢に戦い、勝利するなら、あなたは部族の「英雄」として称賛される。

こうした価値観・世界観の中では、いわばその集落が「生存圏」のすべてであり、隣接する森は自分たちに生きる糧を与えてくれる精霊や神々が住む聖域、隣の集落はエイリアンたち、侵略者たちが住む「異界」ということになるだろう。

さて、こうした価値観・世界観を持つ人間を、そのまま現代文明社会に住まわせたら、どうなるだろう。とにかく自分たち家族あるいは同族集団の中だけで団結し、隣人を敵とみなし、周りの世界がどれだけ彼らを認め、歓迎し、友好的に振る舞ったとしても、周りを「異界」とみなし、常に警戒を怠らず、ちょっとでも敵対するような素振りが覗えたら、「自衛」の名のもとに「先制攻撃」という「英雄的行為」に打って出るかもしれない。それが彼らの倫理観であり、遵守すべき社会的規範だからだ。


結局のところ、社会的規範よりもさらに狭い範囲に自分の「生存圏」をとどめようとすることは、狭い世界観の中に自分自身を囲い込もうとする試みに他ならない。それは「私」あるいは「私たち」という概念の矮小化でもある。その囲いの内側とは、いわゆる「自我」とか「エゴ」と言われるものだろう。原理的には、その囲いはいくらでも矮小化できる。私たちは極めて限定されたエゴの内側にとどまることができる。もちろんそれは、意識の進化に対する「退行」(先祖返り)を意味する。

もうお気づきだと思うが、文明社会の中でも、実際にこうした価値観・世界観で生きている人間は存在する。そうした人間は、隣人と年中トラブルを起こしたり、場合によっては殺人も辞さないだろう。彼らは人を殺しても罪悪感を持たない。彼らなりの正当な理由があるからだ。

具体的な例はいちいち挙げないが、私たちはその気になりさえすれば、規模の大小はあれ、いくらでもその手の事件を思い出すことができるはずだ。「文明社会に住む未開人」というイメージは、単なる喩えではない。


もっと言えば、ある弱小国・貧国のトップが、周りの大国に自らを認めさせ、互角に渡り合い、政治的主導権を握ろうとするがあまり、常に虚勢を張り、大量破壊兵器で武装し、政治的・軍事的挑発行為を繰り返し、周りの大国はその扱いに窮し、場合によっては挑発に乗って輪をかけた挑発行為で「チキンレース」を仕掛け、腹の探り合いを止めないなら、そして、そうした国同士のいざこざに巻き込まれようとする小国のトップが、自国民の「安心・安全」を護るためと称して、一方の大国に対し、コバンザメのように追従し、顔色を窺い、その挑発行為を正当化し、支持する立場を堅持するなら、未開社会の部族民とさほど変わりはない。まさに距離的な範囲が広いか狭いかの違いになってしまう。
結局のところ、国のトップ同士の挑発とは、意識の進化に対して「退行」を促そうとする挑発に他ならない。


ハリウッドがSFと称して好んで作り続けている物語―得体の知れない宇宙からの侵略者(エイリアン)に対して、地球人全員が一致団結して迎え撃って勝利する、といった「正義の戦い」「聖戦」の物語―も、構造として変わりはない。あらゆるテロリズムや、人種的・宗教的・政治的、その他のイデオロギー的偏見の背後には、同じ構造が隠れていないだろうか。

私たちは、爆弾を抱えて人ごみに突っ込みもするし、肌の色や信条が違う人間を敵対視して攻撃もするし、最先端の科学技術や軍事力をふりかざして他国を脅かそうともする。あるいは逆に、危機に瀕した隣人を自分の身を挺して救いもする。

これらはすべて人間の意識レベルが作り出した価値観・世界観を反映した現実であるに違いない。意識がこの世を救いもするし、崩壊させもする。


話を最初に戻そう。
私たちの形態上の進化は、「単細胞生物から霊長類ヒト科へ」というプロセスを経て完結するかもしれない。しかし人間の「進化」は、どう考えてもそこで終わりではない。とはいえこれに同意する科学者は少ない。あるいは同意しても、そこから先は「専門外」として切り捨ててしまいがちだ。「そこは哲学や心理学の領域」だというのだ。この言い方の裏には、「哲学や心理学は、曖昧で客観的立証性が低く、主観的にいかようにでも記述できる」というニュアンスが含まれているようだ。しかし、専門家がいかに異議を唱えようとも、「専門外」として切り捨てようとも、人間には意識というものがあり、それには計り知れない「伸びしろ」がある。


それと同時に、その時代時代、その地域地域における構成員の意識の進化レベル(の平均値)というものがあり、レベルのバラつき(分布)というものがある。これはおそらく、経済的・物質的な豊かさには関係ないだろう。平均値が低く、分布にも大きなバラつきがあるとき、社会的危険度は増す。本当に怖いのは経済的格差ではなく、意識レベルの格差なのだ。この意識格差の危険度は今、「一歩間違うと、世界が崩壊しかねない」というところまで極まっていないだろうか。

喩えて言うなら、こんな具合か。
よちよち歩きの赤ん坊ほどの意識レベルの人間が、高度に進化した意識レベルをもってしてもコントロールできるかどうか疑われるような危険な「花火」を手に持っている。それを強制的に取り上げようとすると、花火に点火しかねない。一方、取り上げようとする側の意識も「そんな危険な花火をちらつかせるなら、こちらはもっと危険な花火に火をつけるぞ」というレベルである。

こうして考えるなら、二つの大戦を経、ナチズムの反省を踏まえ、冷戦とその終結(本当に?)を経験してもなお、私たちの意識はいっこうに進化していないように見える。

かつて、アインシュタインは言った。
「問題を引き起こしたのと同じ意識レベルにある間は、いかなる問題も解くことはできない」

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