チャネリングとは何か?
- チャネリングは「こっくりさん」か?
- チャネリングとはラジオのチューニングを合わせるようなもの(2012年11月28日のセッションより)
- チャネリングは科学的か?
- チャネリングは病理現象か?
- 「禅病」とチャネリングとの関係
チャネリングとは何か?
チャネリングは「こっくりさん」か?
チャネリングという現象は「こっくりさん」のようなものだと言う人がいるようだ。なかなか面白い考えだが、ものの喩えとして適切だろうか・・・?
「こっくりさん」と言えば、五十音と「はい」「いいえ」が書かれた盤の上で、一枚のコインを複数の人間が指で触り、質問を投げかけることによって、そのコインが勝手に動くのに任せ、そのコインが指し示す場所で、質問への答えが「はい」なのか「いいえ」なのか、あるいは単語や文章なのかで判断する(占う)という、アレである。
ここで問題なのは、コインを指で触っている人間が誰も「自分がコインを動かしているわけではない」と思い込んでいる、あるいは何も意識していない、あるいは(本当は動かしているが)シラを切っている、のいずれかであるという点だろう。コインの動きは、あくまで「こっくりさん」の仕業だということになっている(している?)。
これは日本だけの文化ではなく、西洋には「ウィジャボード」と呼ばれる同等のものがある。盤に書かれているのが「Yes」「No」とアルファベットという違いだけで、あとは同じだ。 さて、このような「こっくりさん」現象とも呼ぶべきものを、著者はあえてチャネリングとは違う対象に対して比喩として用いたい。
自らの不手際で引き起こした原発事故によって飛散した放射性物質を「無主物」だと主張することに始まり、生鮮食品を扱う大規模市場の移転に伴い、危険物が検出された土壌に対する責任の所在を曖昧にしようとしたり、国の未来を担う子供たちの教育を司る学校の建設に伴い、どのような政治的・経済的(あるいはイデオロギー的)思惑が交錯したのかについて、「知らぬ・存ぜぬ」を決め込んだり、といった事態は、まさに「こっくりさん」現象と呼ぶにふさわしいものではないだろうか。
チャネリングがこっくりさん的現象かどうかを「忖度」する前に、もっと真剣に考えておかなければならない問題があると感じる。つまり・・・私たちは、全人類規模、全地球規模で「こっくりさん」をやっていないか、ということである。
チャネリングがこっくりさん的現象だとするなら、それはチャネリングによって得たメッセージの扱い方にかかわる問題だろう。つまり、もっぱらチャネラー本人あるいは「さにわ」役の人間の能力や人格にかかわっている。
シャーマニズムの研究者・実践者らによって書かれた「神霊の世界に覚醒して」(道出版)の中に、興味深い記述がある。 「シャーマンが価値をおいていることや興味をもっていることで、シャーマンが何を感知するのかが決まってくるのです。もし、シャーマンが慈悲深く親切であれば、そのシャーマンは宇宙の慈悲と波動が合致し、慈悲を感じ取ることができます。反対に、もしシャーマンが疑い深く怒りに満ちているのであれば、シャーマンは敵を感じ取り、あらゆるところを攻撃します。」 これはシャーマンに関する記述だが、スピリチュアルな営みをする人全般にあてはめても差支えないだろう。
あるチャネラー(特にコンシャス・チャネラー)が「こっくりさん」的だとするなら、つまり自分がチャネリングしたメッセージの内容に「われ関せず」「知らぬ・存ぜぬ」を決め込むなら、それは本人自身が全人類規模で起きている「こっくりさん現象」に無批判で影響されているからに他ならない。
著者は個人的には、チャネリングという営みは、全人類規模の「こっくりさん現象」のような人間の「闇」を、白日の下に曝すのが役割だと思っている。
「こっくりさん」と言えば、五十音と「はい」「いいえ」が書かれた盤の上で、一枚のコインを複数の人間が指で触り、質問を投げかけることによって、そのコインが勝手に動くのに任せ、そのコインが指し示す場所で、質問への答えが「はい」なのか「いいえ」なのか、あるいは単語や文章なのかで判断する(占う)という、アレである。
ここで問題なのは、コインを指で触っている人間が誰も「自分がコインを動かしているわけではない」と思い込んでいる、あるいは何も意識していない、あるいは(本当は動かしているが)シラを切っている、のいずれかであるという点だろう。コインの動きは、あくまで「こっくりさん」の仕業だということになっている(している?)。
これは日本だけの文化ではなく、西洋には「ウィジャボード」と呼ばれる同等のものがある。盤に書かれているのが「Yes」「No」とアルファベットという違いだけで、あとは同じだ。 さて、このような「こっくりさん」現象とも呼ぶべきものを、著者はあえてチャネリングとは違う対象に対して比喩として用いたい。
自らの不手際で引き起こした原発事故によって飛散した放射性物質を「無主物」だと主張することに始まり、生鮮食品を扱う大規模市場の移転に伴い、危険物が検出された土壌に対する責任の所在を曖昧にしようとしたり、国の未来を担う子供たちの教育を司る学校の建設に伴い、どのような政治的・経済的(あるいはイデオロギー的)思惑が交錯したのかについて、「知らぬ・存ぜぬ」を決め込んだり、といった事態は、まさに「こっくりさん」現象と呼ぶにふさわしいものではないだろうか。
チャネリングがこっくりさん的現象かどうかを「忖度」する前に、もっと真剣に考えておかなければならない問題があると感じる。つまり・・・私たちは、全人類規模、全地球規模で「こっくりさん」をやっていないか、ということである。
チャネリングがこっくりさん的現象だとするなら、それはチャネリングによって得たメッセージの扱い方にかかわる問題だろう。つまり、もっぱらチャネラー本人あるいは「さにわ」役の人間の能力や人格にかかわっている。
シャーマニズムの研究者・実践者らによって書かれた「神霊の世界に覚醒して」(道出版)の中に、興味深い記述がある。 「シャーマンが価値をおいていることや興味をもっていることで、シャーマンが何を感知するのかが決まってくるのです。もし、シャーマンが慈悲深く親切であれば、そのシャーマンは宇宙の慈悲と波動が合致し、慈悲を感じ取ることができます。反対に、もしシャーマンが疑い深く怒りに満ちているのであれば、シャーマンは敵を感じ取り、あらゆるところを攻撃します。」 これはシャーマンに関する記述だが、スピリチュアルな営みをする人全般にあてはめても差支えないだろう。
あるチャネラー(特にコンシャス・チャネラー)が「こっくりさん」的だとするなら、つまり自分がチャネリングしたメッセージの内容に「われ関せず」「知らぬ・存ぜぬ」を決め込むなら、それは本人自身が全人類規模で起きている「こっくりさん現象」に無批判で影響されているからに他ならない。
著者は個人的には、チャネリングという営みは、全人類規模の「こっくりさん現象」のような人間の「闇」を、白日の下に曝すのが役割だと思っている。
チャネリングとはラジオのチューニングを合わせるようなもの(2012年11月28日のセッションより)
●AKがラムジーさんとセッションするために変性意識に入ったときに、他の意識体からのコンタクトがくることがあるのでしょうか。私が危惧しているのは、いたずらや、我々を悪い方へと導く存在がいる危険性があるのではないかということです。
それは、チャンネルの合わせ方次第ですが、ラジオのチューニングと同じように、あなたたちは自分が受信したいと思うラジオ局がもっともクリアに聞こえるように、つまみを調節するはずです。それでも、雑音が混じることはあるでしょう。 しかし、あなたたちは、自分が聞きたいと思う番組と雑音とを聞き分けることができます。 おそらく、正しい放送局を受信できているかどうかは、AK本人がいちばんよくわかっているはずです。
●最近、チャネリングをしている人が増えていて、表に出ていますが、その情報も含め、クリアに聴こえているかどうかの判断基準となるものは、こちらに委ねられているのですね。
どのような情報を受信したいのかは、あなたたちから発せられたニーズなのです。宇宙には、あらゆる情報が内蔵されています。
●チャネリングの精度を、私たちは見抜かないといけないのですね。
チャネラーは、雑音も含めて情報を受信する場合もあります。情報を吟味するのはチャネラーから受け取ったあなたたちの問題です。
●だからこそ、正しい放送局からの情報なのかどうか見極めるのが大切だと思います。
正しいか、正しくないかの判断は、あなたたちに委ねられています。
●では、クリアに聴こえる環境=結界を作るのは、AKがわかっているのですね。
結界を作るというと、何かバリアのようなものを張り、邪悪なものを寄せ付けないようにするようなイメージがありますが、目に見えないバリアを張ることによって、ある種の情報の侵入を跳ね除けることができたとしても、目的の情報をキャッチするには、アンテナをバリアの外に伸ばす必要があります。簡単に言えば、目的の情報をうまく受信できない場合は、アンテナをさらに高く伸ばす必要があるということです。
●宇宙にはあらゆる情報が内蔵されているということですが、それがアカシックレコードというものですか? それは、誰でもアクセスできるのでしょうか。
アカシックレコードは、地球のデータベースです。もちろんそこには、宇宙の情報も多少含まれているでしょうが、すべてではありません。地球にとってのアカシックレコードにあたるものは、宇宙全体で無数に存在します。その気になれば、あなたたちはそれにアクセスすることができるでしょう。
●私の中で聞こえる音も、アカシックレコードから得ているものなのでしょうか。
外から来るものと、あなた自身の中から出てくるものとの融合体といったらいいでしょうか。しかし、結局のところ、その二つは同じものなのです。あなたは、音に対する感受性が並外れて鋭いため、もっぱら音という形をとって表に出てきます。それを、AKは日本語の言葉に翻訳しているわけですが、それはその翻訳作業を通して、AKの外側にあるものと内側にあるものが融合して出てきているとも言えます。したがって音は、その融合作業にとっての触媒的な役割を果たしているのです。だからこそ、あなたの音以外でも反応するのです。
●プレアデスにも音楽はありますか。あるとしたら、それはどんなものですか。
宇宙には様ざまな波動があります。それをすべて音楽ということもできます。
地球自体も独自の波動を発しています。それは、あなたたち一人ひとりが発している波動の集合体であるともいえますし、それ以上であるともいえます。いずれにしても、私たちはその波動を読み取り、地球全体の現在の状態を把握することができます。
先ほど、チャネリングによって得られた情報の中から、正規の情報と雑音とをいかに判別するかという話が出ましたが、正否の判別をする前に、そのチャネラーのチャネリングの特徴、いわばある種の癖といったものに注目する必要があるかもしれません。 たとえば、AKの場合は出された質問に対して、まず最初に概論的な情報を受信し、それを発信するという特徴があるようです。そのテーマに関する各論の部分は折に触れ、たとえば、その後に出された別の質問のときに出てくるような特徴もあるようです。したがって、ある日のある一つのテーマに関するセッションだけで判断するのではなく、常に全体を総合的に吟味する必要があるでしょう。
また逆に、各論的で極めて個人的な質問に対する答えの中にも、総論が含まれる場合もあります。それは、地球と宇宙の響き合いのように、宇宙の中に地球があると同時に、地球の中にも宇宙全体が映し出されているという、ホログラフィックな関係性によるものなのです。
※「結界を張れば、外側からの邪気の侵入を防げるが、結界の外にアンテナを伸ばさなければ、本当に受信したい情報には届かない」というラムジーさんの指摘は重要だ。私たちがまとっている肉体も一種の「結界」だとするなら、本当の情報は、魂が肉体の外に出なければ得られないのかもしれない。それは確かにリスキーなことだが、「虎穴にいらずんば虎児を得ず」ということだろう。
普段私(AK)は、Sが奏でるメロディーを日本語に翻訳するようにして作詞をしているが、それも一種のチャネリングなのかもしれない。SはSで、ある日ふっとメロディーが天から降りてくるようにして作曲している。この二人の作詞・作曲法の真の意味を、ここでラムジーさんは見事に分析してみせてくれた感がある。
また、最後の部分でラムジーさんは、こちらからの質問に対して自分が答えている、というよりは、私がどこかから勝手に情報を受信しているかのような話し方をしている。彼ら多次元の存在は、「個であると同時に全体でもある」という。そういう状態なら、情報の発信者が誰で、受信者が誰か、といった区分けはあまり意味がないのかもしれない。 自分たちが三次元世界だけで生きているとすっかり思い込んでいる私たち人間(地球人)にとっては、「個であると同時に全体でもある」という状態がどのようなものなのか、ほとんど馴染みがない。それはある程度仕方がないだろう。 そうした事情からくる戸惑いのようなものは、私にもある。こちらからの質問に対して答えをもらい、それをチャネラーである私が通訳するようにしてチャネリングしているわけだが、ときどき、「通訳であるあなたがしゃべりなさい」という具合に、投げられてしまうような場合がある。国際会議の場で、同時通訳者が話者の代わりに勝手にしゃべってしまうようなものだ。そんなとき、ラムジーさんは、同意の波動を送って寄こしながら、私の話を黙って聞いているような風情だ。私は「これでいいのですか?」と、ラムジーさんの方をチラチラ見ながら話を続けることになる。これも、明確な意識を伴ってのチャネリング(コンシャス・チャネリング)の特徴なのかもしれない。
チャネリングとは、車の運転のようなものかと、ふと思った。習えば誰でもそれなりにできるようになるかもしれないが、誰でもF1ドライバーのようになれるわけではない。 また、やり方次第では、自分も他人も傷つける道具にもなりかねない。やはりそこは、取り組む人間の意識の問題だろう。同時にある種の環境負荷(車の運転の場合は物理的、チャネリングの場合は精神的)をかける行為にもなりかねないが、現代文明において、人がある目的地まで移動するためには欠かせない手段でもあるかもしれない。 確かに車の運転は、行動半径の拡大に伴う自由をもたらしてくれる。
チャネリングも、肉体という制限から私たちを解放し、生存圏により大きな自由度を与えてくれるものかもしれない。 共通する注意事項はこうだ;「それを手段として用いる目的をはっきりさせ、意識を高く持ち、注意を怠ることなく、くれぐれも冷静かつ慎重に」私がドライバーとして免許皆伝かどうかは、読者に委ねるしかない。
それは、チャンネルの合わせ方次第ですが、ラジオのチューニングと同じように、あなたたちは自分が受信したいと思うラジオ局がもっともクリアに聞こえるように、つまみを調節するはずです。それでも、雑音が混じることはあるでしょう。 しかし、あなたたちは、自分が聞きたいと思う番組と雑音とを聞き分けることができます。 おそらく、正しい放送局を受信できているかどうかは、AK本人がいちばんよくわかっているはずです。
●最近、チャネリングをしている人が増えていて、表に出ていますが、その情報も含め、クリアに聴こえているかどうかの判断基準となるものは、こちらに委ねられているのですね。
どのような情報を受信したいのかは、あなたたちから発せられたニーズなのです。宇宙には、あらゆる情報が内蔵されています。
●チャネリングの精度を、私たちは見抜かないといけないのですね。
チャネラーは、雑音も含めて情報を受信する場合もあります。情報を吟味するのはチャネラーから受け取ったあなたたちの問題です。
●だからこそ、正しい放送局からの情報なのかどうか見極めるのが大切だと思います。
正しいか、正しくないかの判断は、あなたたちに委ねられています。
●では、クリアに聴こえる環境=結界を作るのは、AKがわかっているのですね。
結界を作るというと、何かバリアのようなものを張り、邪悪なものを寄せ付けないようにするようなイメージがありますが、目に見えないバリアを張ることによって、ある種の情報の侵入を跳ね除けることができたとしても、目的の情報をキャッチするには、アンテナをバリアの外に伸ばす必要があります。簡単に言えば、目的の情報をうまく受信できない場合は、アンテナをさらに高く伸ばす必要があるということです。
●宇宙にはあらゆる情報が内蔵されているということですが、それがアカシックレコードというものですか? それは、誰でもアクセスできるのでしょうか。
アカシックレコードは、地球のデータベースです。もちろんそこには、宇宙の情報も多少含まれているでしょうが、すべてではありません。地球にとってのアカシックレコードにあたるものは、宇宙全体で無数に存在します。その気になれば、あなたたちはそれにアクセスすることができるでしょう。
●私の中で聞こえる音も、アカシックレコードから得ているものなのでしょうか。
外から来るものと、あなた自身の中から出てくるものとの融合体といったらいいでしょうか。しかし、結局のところ、その二つは同じものなのです。あなたは、音に対する感受性が並外れて鋭いため、もっぱら音という形をとって表に出てきます。それを、AKは日本語の言葉に翻訳しているわけですが、それはその翻訳作業を通して、AKの外側にあるものと内側にあるものが融合して出てきているとも言えます。したがって音は、その融合作業にとっての触媒的な役割を果たしているのです。だからこそ、あなたの音以外でも反応するのです。
●プレアデスにも音楽はありますか。あるとしたら、それはどんなものですか。
宇宙には様ざまな波動があります。それをすべて音楽ということもできます。
地球自体も独自の波動を発しています。それは、あなたたち一人ひとりが発している波動の集合体であるともいえますし、それ以上であるともいえます。いずれにしても、私たちはその波動を読み取り、地球全体の現在の状態を把握することができます。
先ほど、チャネリングによって得られた情報の中から、正規の情報と雑音とをいかに判別するかという話が出ましたが、正否の判別をする前に、そのチャネラーのチャネリングの特徴、いわばある種の癖といったものに注目する必要があるかもしれません。 たとえば、AKの場合は出された質問に対して、まず最初に概論的な情報を受信し、それを発信するという特徴があるようです。そのテーマに関する各論の部分は折に触れ、たとえば、その後に出された別の質問のときに出てくるような特徴もあるようです。したがって、ある日のある一つのテーマに関するセッションだけで判断するのではなく、常に全体を総合的に吟味する必要があるでしょう。
また逆に、各論的で極めて個人的な質問に対する答えの中にも、総論が含まれる場合もあります。それは、地球と宇宙の響き合いのように、宇宙の中に地球があると同時に、地球の中にも宇宙全体が映し出されているという、ホログラフィックな関係性によるものなのです。
※「結界を張れば、外側からの邪気の侵入を防げるが、結界の外にアンテナを伸ばさなければ、本当に受信したい情報には届かない」というラムジーさんの指摘は重要だ。私たちがまとっている肉体も一種の「結界」だとするなら、本当の情報は、魂が肉体の外に出なければ得られないのかもしれない。それは確かにリスキーなことだが、「虎穴にいらずんば虎児を得ず」ということだろう。
普段私(AK)は、Sが奏でるメロディーを日本語に翻訳するようにして作詞をしているが、それも一種のチャネリングなのかもしれない。SはSで、ある日ふっとメロディーが天から降りてくるようにして作曲している。この二人の作詞・作曲法の真の意味を、ここでラムジーさんは見事に分析してみせてくれた感がある。
また、最後の部分でラムジーさんは、こちらからの質問に対して自分が答えている、というよりは、私がどこかから勝手に情報を受信しているかのような話し方をしている。彼ら多次元の存在は、「個であると同時に全体でもある」という。そういう状態なら、情報の発信者が誰で、受信者が誰か、といった区分けはあまり意味がないのかもしれない。 自分たちが三次元世界だけで生きているとすっかり思い込んでいる私たち人間(地球人)にとっては、「個であると同時に全体でもある」という状態がどのようなものなのか、ほとんど馴染みがない。それはある程度仕方がないだろう。 そうした事情からくる戸惑いのようなものは、私にもある。こちらからの質問に対して答えをもらい、それをチャネラーである私が通訳するようにしてチャネリングしているわけだが、ときどき、「通訳であるあなたがしゃべりなさい」という具合に、投げられてしまうような場合がある。国際会議の場で、同時通訳者が話者の代わりに勝手にしゃべってしまうようなものだ。そんなとき、ラムジーさんは、同意の波動を送って寄こしながら、私の話を黙って聞いているような風情だ。私は「これでいいのですか?」と、ラムジーさんの方をチラチラ見ながら話を続けることになる。これも、明確な意識を伴ってのチャネリング(コンシャス・チャネリング)の特徴なのかもしれない。
チャネリングとは、車の運転のようなものかと、ふと思った。習えば誰でもそれなりにできるようになるかもしれないが、誰でもF1ドライバーのようになれるわけではない。 また、やり方次第では、自分も他人も傷つける道具にもなりかねない。やはりそこは、取り組む人間の意識の問題だろう。同時にある種の環境負荷(車の運転の場合は物理的、チャネリングの場合は精神的)をかける行為にもなりかねないが、現代文明において、人がある目的地まで移動するためには欠かせない手段でもあるかもしれない。 確かに車の運転は、行動半径の拡大に伴う自由をもたらしてくれる。
チャネリングも、肉体という制限から私たちを解放し、生存圏により大きな自由度を与えてくれるものかもしれない。 共通する注意事項はこうだ;「それを手段として用いる目的をはっきりさせ、意識を高く持ち、注意を怠ることなく、くれぐれも冷静かつ慎重に」私がドライバーとして免許皆伝かどうかは、読者に委ねるしかない。
チャネリングは科学的か?
チャネリングなどという営為は、はなから非現実的・非科学的だと決めつけて、まったく受け付けない人も多いことだろう。なかには、宇宙的存在だの宇宙意識だのというのは私(著者)のでっち上げで、小説に書かれた内容はすべて私個人が単独で考えた内容なのだと思う向きもあるだろう。私の母親などはまさにその部類だ。しかし母親の疑念はともかく、彼女は小説の極めて熱心な読者でもある。
かくいう私自身も、自分の身に起こるまでは、チャネリングという分野はどちらかというと食わず嫌いだった。しかし、興味本位でときどき覗き見ていて、たとえばバシャールなどの語っている内容は(すべてではないにしろ)非常に興味深いと思っていた。つまり、バシャールが実際に存在するかしないかは、私にとってはどちらでもいいことで、問題は、語られている内容が、人間の真実を言い当てていると感じるか感じないかだ。
今でもそのスタンスは変わっていない。
ラムジーさんは、チャネリングや宇宙存在といった現象の科学的証明が困難であり、したがって現時点ではあくまで個人のリアリティに属する問題である、という具合に、やや腰が引けたようなものの言い方をしている。いや、ラムジーさんにしてみれば、腰が引けているわけではなく、私たちの理解力や、地球という三次元世界(あるいは、地球が三次元世界であると思い込んでいる私たち)を考慮しての深謀遠慮なのだろう。もとより、プレアデスのラムジーという存在が実在するのかしないのか、ご本人が科学的に(特に地球での現行の科学的範疇で)証明してみせなければならない必要などない。
私にしてみても、本書を異星人の存在の科学的証明という目的で書いてはいない。読者がラムジーさんの実在を信じようが信じまいが、私にはどうでもいいことだ。これらが100パーセント私の自作自演だと思ってもらったって構わない。私としても、ラムジーさんの話の中に、私自身の思考がまったく介在していないという確証はない。ただ、私として確実に言えることは、これらの内容が、私の自我だけが語ったものであることなど、とうていあり得ないということだ。だからといって、どこからどこまでがラムジーさんの言で、それ以外が私の思考であるといった区分けをするつもりもない。情報の真偽が受け取る人間のリアリティに委ねられているというのは、そういう意味からだ。こうした事情から、私は本書を、完全なるフィクションだとも、完全なるノンフィクションだとも思っていない。それも含めて、読者が判断すればいいと思っている。
それよりも、私にとっての関心事は、三次元世界の住人である(と思い込んでいる?)私たちが、自分たちの感知するこの世界は、より高次な(多次元の)世界に組み込まれているのだということに気づき、そうした視点から地球や自分たちの未来を描く一助に、本書がなれるかどうかということだ。
ラムジーさんは、チャネリングや宇宙存在といった現象の科学的証明が困難であり、したがって現時点ではあくまで個人のリアリティに属する問題である、という具合に、やや腰が引けたようなものの言い方をしている。いや、ラムジーさんにしてみれば、腰が引けているわけではなく、私たちの理解力や、地球という三次元世界(あるいは、地球が三次元世界であると思い込んでいる私たち)を考慮しての深謀遠慮なのだろう。もとより、プレアデスのラムジーという存在が実在するのかしないのか、ご本人が科学的に(特に地球での現行の科学的範疇で)証明してみせなければならない必要などない。
私にしてみても、本書を異星人の存在の科学的証明という目的で書いてはいない。読者がラムジーさんの実在を信じようが信じまいが、私にはどうでもいいことだ。これらが100パーセント私の自作自演だと思ってもらったって構わない。私としても、ラムジーさんの話の中に、私自身の思考がまったく介在していないという確証はない。ただ、私として確実に言えることは、これらの内容が、私の自我だけが語ったものであることなど、とうていあり得ないということだ。だからといって、どこからどこまでがラムジーさんの言で、それ以外が私の思考であるといった区分けをするつもりもない。情報の真偽が受け取る人間のリアリティに委ねられているというのは、そういう意味からだ。こうした事情から、私は本書を、完全なるフィクションだとも、完全なるノンフィクションだとも思っていない。それも含めて、読者が判断すればいいと思っている。
それよりも、私にとっての関心事は、三次元世界の住人である(と思い込んでいる?)私たちが、自分たちの感知するこの世界は、より高次な(多次元の)世界に組み込まれているのだということに気づき、そうした視点から地球や自分たちの未来を描く一助に、本書がなれるかどうかということだ。