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チャネリングとは何か?

チャネリングという現象は「こっくりさん」のようなものだと言う人がいるようだ。なかなか面白い考えだが、ものの喩えとして適切だろうか・・・?

 「こっくりさん」と言えば、五十音と「はい」「いいえ」が書かれた盤の上で、一枚のコインを複数の人間が指で触り、質問を投げかけることによって、そのコインが勝手に動くのに任せ、そのコインが指し示す場所で、質問への答えが「はい」なのか「いいえ」なのか、あるいは単語や文章なのかで判断する(占う)という、アレである。

ここで問題なのは、コインを指で触っている人間が誰も「自分がコインを動かしているわけではない」と思い込んでいる、あるいは何も意識していない、あるいは(本当は動かしているが)シラを切っている、のいずれかであるという点だろう。コインの動きは、あくまで「こっくりさん」の仕業だということになっている(している?)。

これは日本だけの文化ではなく、西洋には「ウィジャボード」と呼ばれる同等のものがある。盤に書かれているのが「Yes」「No」とアルファベットという違いだけで、あとは同じだ。 さて、このような「こっくりさん」現象とも呼ぶべきものを、著者はあえてチャネリングとは違う対象に対して比喩として用いたい。

 

自らの不手際で引き起こした原発事故によって飛散した放射性物質を「無主物」だと主張することに始まり、生鮮食品を扱う大規模市場の移転に伴い、危険物が検出された土壌に対する責任の所在を曖昧にしようとしたり、国の未来を担う子供たちの教育を司る学校の建設に伴い、どのような政治的・経済的(あるいはイデオロギー的)思惑が交錯したのかについて、「知らぬ・存ぜぬ」を決め込んだり、といった事態は、まさに「こっくりさん」現象と呼ぶにふさわしいものではないだろうか。

チャネリングがこっくりさん的現象かどうかを「忖度」する前に、もっと真剣に考えておかなければならない問題があると感じる。つまり・・・私たちは、全人類規模、全地球規模で「こっくりさん」をやっていないか、ということである。

チャネリングがこっくりさん的現象だとするなら、それはチャネリングによって得たメッセージの扱い方にかかわる問題だろう。つまり、もっぱらチャネラー本人あるいは「さにわ」役の人間の能力や人格にかかわっている。

シャーマニズムの研究者・実践者らによって書かれた「神霊の世界に覚醒して」(道出版)の中に、興味深い記述がある。 「シャーマンが価値をおいていることや興味をもっていることで、シャーマンが何を感知するのかが決まってくるのです。もし、シャーマンが慈悲深く親切であれば、そのシャーマンは宇宙の慈悲と波動が合致し、慈悲を感じ取ることができます。反対に、もしシャーマンが疑い深く怒りに満ちているのであれば、シャーマンは敵を感じ取り、あらゆるところを攻撃します。」 これはシャーマンに関する記述だが、スピリチュアルな営みをする人全般にあてはめても差支えないだろう。

あるチャネラー(特にコンシャス・チャネラー)が「こっくりさん」的だとするなら、つまり自分がチャネリングしたメッセージの内容に「われ関せず」「知らぬ・存ぜぬ」を決め込むなら、それは本人自身が全人類規模で起きている「こっくりさん現象」に無批判で影響されているからに他ならない。

 著者は個人的には、チャネリングという営みは、全人類規模の「こっくりさん現象」のような人間の「闇」を、白日の下に曝すのが役割だと思っている。



●AKがラムジーさんとセッションするために変性意識に入ったときに、他の意識体からのコンタクトがくることがあるのでしょうか。私が危惧しているのは、いたずらや、我々を悪い方へと導く存在がいる危険性があるのではないかということです。

 それは、チャンネルの合わせ方次第ですが、ラジオのチューニングと同じように、あなたたちは自分が受信したいと思うラジオ局がもっともクリアに聞こえるように、つまみを調節するはずです。それでも、雑音が混じることはあるでしょう。 しかし、あなたたちは、自分が聞きたいと思う番組と雑音とを聞き分けることができます。 おそらく、正しい放送局を受信できているかどうかは、AK本人がいちばんよくわかっているはずです。

●最近、チャネリングをしている人が増えていて、表に出ていますが、その情報も含め、クリアに聴こえているかどうかの判断基準となるものは、こちらに委ねられているのですね。

どのような情報を受信したいのかは、あなたたちから発せられたニーズなのです。宇宙には、あらゆる情報が内蔵されています。

●チャネリングの精度を、私たちは見抜かないといけないのですね。

チャネラーは、雑音も含めて情報を受信する場合もあります。情報を吟味するのはチャネラーから受け取ったあなたたちの問題です。

●だからこそ、正しい放送局からの情報なのかどうか見極めるのが大切だと思います。

正しいか、正しくないかの判断は、あなたたちに委ねられています。

●では、クリアに聴こえる環境=結界を作るのは、AKがわかっているのですね。

 結界を作るというと、何かバリアのようなものを張り、邪悪なものを寄せ付けないようにするようなイメージがありますが、目に見えないバリアを張ることによって、ある種の情報の侵入を跳ね除けることができたとしても、目的の情報をキャッチするには、アンテナをバリアの外に伸ばす必要があります。簡単に言えば、目的の情報をうまく受信できない場合は、アンテナをさらに高く伸ばす必要があるということです。

●宇宙にはあらゆる情報が内蔵されているということですが、それがアカシックレコードというものですか? それは、誰でもアクセスできるのでしょうか。

 アカシックレコードは、地球のデータベースです。もちろんそこには、宇宙の情報も多少含まれているでしょうが、すべてではありません。地球にとってのアカシックレコードにあたるものは、宇宙全体で無数に存在します。その気になれば、あなたたちはそれにアクセスすることができるでしょう。

●私の中で聞こえる音も、アカシックレコードから得ているものなのでしょうか。

外から来るものと、あなた自身の中から出てくるものとの融合体といったらいいでしょうか。しかし、結局のところ、その二つは同じものなのです。あなたは、音に対する感受性が並外れて鋭いため、もっぱら音という形をとって表に出てきます。それを、AKは日本語の言葉に翻訳しているわけですが、それはその翻訳作業を通して、AKの外側にあるものと内側にあるものが融合して出てきているとも言えます。したがって音は、その融合作業にとっての触媒的な役割を果たしているのです。だからこそ、あなたの音以外でも反応するのです。

●プレアデスにも音楽はありますか。あるとしたら、それはどんなものですか。

宇宙には様ざまな波動があります。それをすべて音楽ということもできます。
地球自体も独自の波動を発しています。それは、あなたたち一人ひとりが発している波動の集合体であるともいえますし、それ以上であるともいえます。いずれにしても、私たちはその波動を読み取り、地球全体の現在の状態を把握することができます。
 
先ほど、チャネリングによって得られた情報の中から、正規の情報と雑音とをいかに判別するかという話が出ましたが、正否の判別をする前に、そのチャネラーのチャネリングの特徴、いわばある種の癖といったものに注目する必要があるかもしれません。 たとえば、AKの場合は出された質問に対して、まず最初に概論的な情報を受信し、それを発信するという特徴があるようです。そのテーマに関する各論の部分は折に触れ、たとえば、その後に出された別の質問のときに出てくるような特徴もあるようです。したがって、ある日のある一つのテーマに関するセッションだけで判断するのではなく、常に全体を総合的に吟味する必要があるでしょう。

また逆に、各論的で極めて個人的な質問に対する答えの中にも、総論が含まれる場合もあります。それは、地球と宇宙の響き合いのように、宇宙の中に地球があると同時に、地球の中にも宇宙全体が映し出されているという、ホログラフィックな関係性によるものなのです。


※「結界を張れば、外側からの邪気の侵入を防げるが、結界の外にアンテナを伸ばさなければ、本当に受信したい情報には届かない」というラムジーさんの指摘は重要だ。私たちがまとっている肉体も一種の「結界」だとするなら、本当の情報は、魂が肉体の外に出なければ得られないのかもしれない。それは確かにリスキーなことだが、「虎穴にいらずんば虎児を得ず」ということだろう。
普段私(AK)は、Sが奏でるメロディーを日本語に翻訳するようにして作詞をしているが、それも一種のチャネリングなのかもしれない。SはSで、ある日ふっとメロディーが天から降りてくるようにして作曲している。この二人の作詞・作曲法の真の意味を、ここでラムジーさんは見事に分析してみせてくれた感がある。

また、最後の部分でラムジーさんは、こちらからの質問に対して自分が答えている、というよりは、私がどこかから勝手に情報を受信しているかのような話し方をしている。彼ら多次元の存在は、「個であると同時に全体でもある」という。そういう状態なら、情報の発信者が誰で、受信者が誰か、といった区分けはあまり意味がないのかもしれない。 自分たちが三次元世界だけで生きているとすっかり思い込んでいる私たち人間(地球人)にとっては、「個であると同時に全体でもある」という状態がどのようなものなのか、ほとんど馴染みがない。それはある程度仕方がないだろう。 そうした事情からくる戸惑いのようなものは、私にもある。こちらからの質問に対して答えをもらい、それをチャネラーである私が通訳するようにしてチャネリングしているわけだが、ときどき、「通訳であるあなたがしゃべりなさい」という具合に、投げられてしまうような場合がある。国際会議の場で、同時通訳者が話者の代わりに勝手にしゃべってしまうようなものだ。そんなとき、ラムジーさんは、同意の波動を送って寄こしながら、私の話を黙って聞いているような風情だ。私は「これでいいのですか?」と、ラムジーさんの方をチラチラ見ながら話を続けることになる。これも、明確な意識を伴ってのチャネリング(コンシャス・チャネリング)の特徴なのかもしれない。

チャネリングとは、車の運転のようなものかと、ふと思った。習えば誰でもそれなりにできるようになるかもしれないが、誰でもF1ドライバーのようになれるわけではない。 また、やり方次第では、自分も他人も傷つける道具にもなりかねない。やはりそこは、取り組む人間の意識の問題だろう。同時にある種の環境負荷(車の運転の場合は物理的、チャネリングの場合は精神的)をかける行為にもなりかねないが、現代文明において、人がある目的地まで移動するためには欠かせない手段でもあるかもしれない。 確かに車の運転は、行動半径の拡大に伴う自由をもたらしてくれる。
チャネリングも、肉体という制限から私たちを解放し、生存圏により大きな自由度を与えてくれるものかもしれない。 共通する注意事項はこうだ;「それを手段として用いる目的をはっきりさせ、意識を高く持ち、注意を怠ることなく、くれぐれも冷静かつ慎重に」私がドライバーとして免許皆伝かどうかは、読者に委ねるしかない。


チャネリングなどという営為は、はなから非現実的・非科学的だと決めつけて、まったく受け付けない人も多いことだろう。なかには、宇宙的存在だの宇宙意識だのというのは私(著者)のでっち上げで、小説に書かれた内容はすべて私個人が単独で考えた内容なのだと思う向きもあるだろう。私の母親などはまさにその部類だ。しかし母親の疑念はともかく、彼女は小説の極めて熱心な読者でもある。 かくいう私自身も、自分の身に起こるまでは、チャネリングという分野はどちらかというと食わず嫌いだった。しかし、興味本位でときどき覗き見ていて、たとえばバシャールなどの語っている内容は(すべてではないにしろ)非常に興味深いと思っていた。つまり、バシャールが実際に存在するかしないかは、私にとってはどちらでもいいことで、問題は、語られている内容が、人間の真実を言い当てていると感じるか感じないかだ。 今でもそのスタンスは変わっていない。

ラムジーさんは、チャネリングや宇宙存在といった現象の科学的証明が困難であり、したがって現時点ではあくまで個人のリアリティに属する問題である、という具合に、やや腰が引けたようなものの言い方をしている。いや、ラムジーさんにしてみれば、腰が引けているわけではなく、私たちの理解力や、地球という三次元世界(あるいは、地球が三次元世界であると思い込んでいる私たち)を考慮しての深謀遠慮なのだろう。もとより、プレアデスのラムジーという存在が実在するのかしないのか、ご本人が科学的に(特に地球での現行の科学的範疇で)証明してみせなければならない必要などない。

私にしてみても、本書を異星人の存在の科学的証明という目的で書いてはいない。読者がラムジーさんの実在を信じようが信じまいが、私にはどうでもいいことだ。これらが100パーセント私の自作自演だと思ってもらったって構わない。私としても、ラムジーさんの話の中に、私自身の思考がまったく介在していないという確証はない。ただ、私として確実に言えることは、これらの内容が、私の自我だけが語ったものであることなど、とうていあり得ないということだ。だからといって、どこからどこまでがラムジーさんの言で、それ以外が私の思考であるといった区分けをするつもりもない。情報の真偽が受け取る人間のリアリティに委ねられているというのは、そういう意味からだ。こうした事情から、私は本書を、完全なるフィクションだとも、完全なるノンフィクションだとも思っていない。それも含めて、読者が判断すればいいと思っている。

それよりも、私にとっての関心事は、三次元世界の住人である(と思い込んでいる?)私たちが、自分たちの感知するこの世界は、より高次な(多次元の)世界に組み込まれているのだということに気づき、そうした視点から地球や自分たちの未来を描く一助に、本書がなれるかどうかということだ。


チャネリングは病理現象か?

地元の友人で、小説を通読してくれた読者の一人でもある人物と、久しぶりに会った。仮に「N氏」と呼んでおこう。
N氏に読後の率直な感想を聞いてみると、まず、「読み始めると、とたんに眠くなるので往生した」と言う。それは「聖書」を読んでいたときにも感じたことだったという。ただし、「聖書」と本書との決定的な違いは、本書が著者である私の生々しい体験に基づいている点だという。その点では、飽きずに読めたらしい。
 いずれにしろ、「この本は一回読んだだけでは済まない」ということは感じたようだ。 そんな全体的な感想を述べたうえで、彼はこんなことを言い出した。

「もし著者本人を知らない人間がこの本を読んだら、“この著者はそうとう危ないヤツだ”と思うだろう」

 もちろん彼は私のことを個人的によく知っている。つまり私自身に危ないところ、おかしなところはまったくなく、バランスがとれた人間であることをよく知っているわけだ。そのうえで彼は「この小説に書かれているようなことが、本当にあなたの身に起きているなら、ヤバイのではないか」と本気で心配してくれている。 いわゆる「変性意識状態」というものに、あまり深く入り込みすぎると、意識が戻らなかったり、精神をおかしくしたり、といったこともあり得るのではないか、というのが彼の懸念なのだ。


小説のクライマックスにおいて、主人公の「AK」は、二度と戻ってこられないかもしれない究極の「意識の旅」に出る。AKは、物理的な場所の移動をするわけではないが、ある種の深い瞑想状態に入り、時空・次元を超えて「異界」に到達する。その「異界」には、すでに先人が入り込んでいて、その先人はそこから意識が戻ってこられない状態(昏睡状態)になっている・・・。


これはあくまで、物語の演出上の設定なのだが、そのディテールは私自身の「実体験」に基づいてもいる。それを読んだN氏が、私の身を案じることも、「ムベなるかな」だ。 もちろん彼には、事実とフィクションの部分に、いくらかの混同や誤解が見受けられるのだが、彼自身にも、ネイティブの儀式に参加して、「リアルな幻覚」をみせられた体験があるので、それに類することが私の身に年中起きているとしたら、そうとうヤバイことになるのではないか、という想像力が働いたらしい。


「この本には、そうとうリアルにヤバイことが書かれている」という彼の感想は、この小説が私自身の個人的なリアリティのうえに成立していることを傍証してもいるだろう。ある小説を評価するうえで、その小説を成立させている著者個人のリアリティが、読者の持つ個人的なリアリティとどれだけ共鳴できるかは、何よりも重要なポイントであるに違いない。


ところで、N氏の懸念は、どこまでリアルだろうか。 まず第一に言えることは、私たちは自分たちの「意識」というものに対して、まだまだ充分な知見を持っていないということだ。私たちは、地球の地図を描いてきた。自分たちの歴史や生命の進化といった時間的な地図もずいぶん描いているだろう。遺伝子の地図も、素粒子や宇宙の成り立ちについても、あるいは身体の構造という地図に関しても、かなりのところまで描いている。圧倒的に描き足りていないのは意識の地図ではないだろうか。

私たちが認識している、していないにかかわらず、私たちの意識も、ある種の変遷を経て「進化」している。ここで言う「進化」には、個人の意識の成長・発達という意味合い(これは数十年単位)と、人類全体の意識の進化、いわば人類の精神史という意味合い(これは数十万年単位)と、二通りあるだろう。どちらの地図も、まだまだ未開拓の分野だ。


私は小説において、この両方の地図について問題にしたつもりだ(もちろん一冊の本で書き切れたとは思っていないが)。人間の意識がどのような過程を経て進化し、そしてこの先どのような過程を経てどこへ向かっていくのか。もちろんこれには未知の部分があまりにも多い。未知の部分は不安で恐ろしい。人間の進みゆきは、たよりなく、年中脇道にそれたり、迷路に陥ったり、茫然とたたずんだりしているようにみえる。
N氏の懸念は、そうした未知の領域に対する不安や恐怖を反映してもいるだろう。ましてや、通常とは異なる「変性意識」といった状態が、私たちをどこへ連れていくのかというテーマになると、未知の危険な「病」にわざと罹患して、そこから無事生還してみせる、といった試みのように思えても致し方ないかもしれない。


チャネリングとは危険な病だろうか。 チャネリングでコンタクトしている(と本人が主張している)相手とは、一種の病理的幻覚だろうか。 まず第一に、「変性意識状態で、高次元の存在とコンタクトをとり、彼らとテレパシーで会話し、メッセージを得る」といったことが日常化していると主張する人間に対し、「その人間は精神を病んで、幻覚をみているに違いない」と疑う人がいるだろうことは容易に想像できる。 私自身も、ある医療従事者に「典型的な薬物中毒やアルコール中毒患者の症状だ」と言われたことがある。もちろん私は、ドラッグを「たしなむ」人間ではないし、酒もほんのお付き合い程度にしか飲まない。 ある種の中毒患者や精神病患者は、幻覚に「悩まされる」ことがあるだろうが、私は「彼ら」と「触れ合う」ことに「悩まされ」てはいない。私が望みもしないのに、彼らがいきなり現れて私にちょっかいを出すわけではない。むしろ、私の方からコンタクトを取りに行っていると言った方が正解だろう。


問題の本質は、チャネリングといった現象が、薬物やアルコールのような外的な「危険因子」によって引き起こされているかどうか、というところにはない。 私の経験からすると、幻覚を引き起こすであろう薬物やアルコールといった外的因子は、チャネリング・プロセスの阻害要因にはなっても、促進要因にはならない。つい先日、あるウィルス性の病気にかかり、抗生物質、鎮痛剤、ステロイド薬など、かなり強い薬を継続的に服用していた時期があったが、その時は瞑想状態に入っても「低空飛行」にとどまってしまい、なかなか目的地にたどり着けない状態が続いた。 もっと言えば、何らかの体調不良、身体の痛みや違和感、不安や恐怖、強いストレスといった心因性のマイナス要因も、チャネリング・プロセスの阻害要因にはなっても、促進要因にはならない。このような因子を抱えたまま「変性意識状態」に入ると、いわゆる「バッド・トリップ」になってもおかしくないだろう。
チャネリングそのものが「バッド・トリップ」を引き起こすわけではない。チャネリングは少なくとも外因性の「病理」現象とは異なる。むしろ人間を病的な状態から生還させるのに役立ってくれるものだとさえ思っている。 少なくとも個人的な実感で言えば、チャネリングは、人間の成長に寄与するものであったとしても、退行や堕落に寄与するものであるとは、とうてい思えないのだ。 以下に、私自身の実感としてのチャネリングの効用について、思いつく限り挙げておこう。


〇チャネリングによってコンタクトする相手は、人を悩ませたり、危険な状態に誘導したりするような相手ではなく、むしろ人に高度なエネルギーをもたらし、人を癒し、有意義な情報を提供してくれる。

〇これは、チャネリングそのものというよりも、「瞑想」つまり意識を日常とは別の、より鎮静し安定した状態にもっていくこと全般に言えることかもしれないが、体調を整えたり、ストレスを軽減したり、乱れたホルモンバランスを元に戻したり、といったことに役立つ。

〇薬物やアルコール、あるいはある種の身体的病理といった外的因子、心因性のストレス、精神疾患、あるいはエゴの増大といった内的因子によって「バッド・トリップ」が引き起こされかねないような場合は、そのこと自体もチャネリング相手によって指摘あるいは警告されるに違いない。

〇その他、本人が気づいていないような原因で、人生に生きづらさを感じたり、逸脱や迷走を起こしたり、危険な方向に進もうとしたりしていたら、そのことについてもチャネリング相手から気づきがもたらされるだろう。

〇私が自分の体験を小説というかたちに表現したように、チャネリングは人間が創造性を発揮するのにも役立つ。

〇チャネリングは、チャネラー本人だけでなく、その営みに直接的・間接的に関わる人間にも、よい影響をもたらしてくれる。



これは、私自身が実際に経験したことだが、まず、深刻な持病をいくつも抱える私に対して、彼らは誠心誠意その回復に向けて協力してくれた。それは今でも変わらない。ある種のエネルギーや波動によるヒーリングを施してくれたり、本質的で有意義なアドバイスをくれたり、ただ黙って寄り添ってくれたり、という具合だ。おかげで今は、深刻な窮地から脱している。もちろん、自分で努力した部分もあることだけは付け加えておく。


また、瞑想中、あるいはチャネリング中、私が同調しなくていいエネルギーや波動は、前もって彼らが遠ざけているのではないかと思うことが何度もあった。実際にそうしたイメージを見せられ、「わかりましたか、今のはあなたが同調しなくていいエネルギーです」という具合に警告されたこともある。つまり、彼らのやり方は、道にポッカリ開いている危険な穴を指差し、「ほらね、見えるでしょ。見えるならそれを避けて通れますよね」というやり方のようだ。


もうひとつ重要な点は、彼らが(少なくとも私に)関わる場合、彼ら自身に、あるいはチャネリングという営みに依存したり嗜癖したりしないよう、関わり方をある程度コントロールしているのではないかと思える点だ。つまり彼らの関わり方は、ある種の「自立(自律)支援」の様相を呈しているのだ。

※もちろん、チャネリングを実践するにあたっての注意点はいろいろあるので、それはおいおい取り上げたいと思っている。

今回は、先日書いた「チャネリングは病理現象か?」という記事のさらなる続きを書く。

先日は、チャネリングによってコンタクトしている(と称する)存在とは、薬物やアルコールによる中毒症状が引き起こす一種の幻覚なのか、そうではないのか、という疑問から論稿をスタートさせた。
 チャネリング・プロセスそのものが何らかの病的な現象を引き起こすとは考えにくいのだが、瞑想や座禅といった「変性意識状態」を伴う修行を長年続けていく中では、注意を要する現象が起こり得ることが報告されている。チャネリング・プロセスは、そうした危険を避ける役にも立つ、というのが私の持論だが、その持論を立証するには、実際にどのような危険があり得るのか、その正体をしっかり見極めておく必要があるだろう。


たとえば禅の世界に「禅病」なるものがある。
有名なところでは、江戸時代の禅の名僧として名高い白隠の例がある。 白隠は、15歳で出家し、25歳のときに悟りを啓いたと言われているが、「悟後」のさらなる修行のため、昼夜を分かたぬ精進、粗食、師の看病などに明け暮れ、睡眠不足が続き、心身ともに疲労の極みに達した。しかし、白隠はそれを自分の修行不足と解し、さらなる死にもの狂いの座禅で乗り切ろうとする。 そのときの様子を白隠は有名な著書「夜船閑話(やせんかんな)」に次のように記している。


「頭はのぼせあがり、肺は火のように熱く感じ、枯れはてたようになり、両脚はまるで氷か雪にでも浸しているように冷たく、両耳は鳴ってまるで川音でも聞いているようであった。肝臓も胆嚢も著しく衰弱し、何かしようと思うと恐怖が先立ち、神経が疲れはて、寝ても醒めても種々の幻覚に襲われる。両腋の下にはつねに汗が流れ、両眼にはいつも涙がたまるという有り様であった」


肉体に現れた症状から察するに、白隠は医学的には結核ないし肋膜炎などにかかっていたのではないかと言われている。また漠然とした恐怖や幻覚などの精神的症状からは、ある種のノイローゼないし何らかの精神障害が疑われるところでもあるが、それらは少なくとも薬物やアルコールなどの中毒や依存症によるものではない。「座禅中毒」といったものがあるとしたら別だろうが。ここで言う「禅病」とは、もちろん「座禅中毒」ではない。白隠は「座禅をやめたいのにやめられなかった」わけではない。何らかの病的な状態を乗り切るために、座禅に活路を見出そうとしたに違いない。


おそらく現代医学は、白隠の上記のような症状に対し、「何らかの精神障害を伴う結核様の病態」といった診断を下すところだろう。 しかし、私として強調しておきたいのは、禅の修行の初期段階にある人が上記のような症状を示した場合と、白隠のような修行の最終段階にある高僧が同じような症状を呈した場合とでは、たとえ同じ病態だったとしても、おのずと意味合いが違うということだ。しかし、おそらくそこで現代医学は、両者に同じ病名をつけ、同じ薬を処方して治療を完結するに違いない。


「禅病」を考えるにあたり、細かいことはいろいろあるにせよ、ここでは便宜上、「悟り」前と「悟り」後というふうに二つの段階に分けてみるなら、「悟り」前に現れる「禅病」の典型は「シュード・ニルバーナ」と呼ばれる症状だろう。これは簡単に言うと「偽の悟り」ということだ。修行の浅い者が、ちょっとした高揚感・至福感のようなものを「悟り」と勘違いし、有頂天になってのぼせ上がってしまう状態を指す。この状態でも、白隠が記したのと同じような症状が出ることもあるだろう。しかし、白隠がこの状態でなかったことは明らかだ。


人間の意識が到達し得るあらゆる発達段階と、各段階で起こり得る病理、およびその対処法について、もっとも広範囲かつ詳細に論じているのは、やはりケン・ウィルバーだろう。 精神科医で日本トランスパーソナル心理学/精神医学会代表の安藤治氏は、ウィルバー理論を援用しつつ、白隠の禅病について論じている。 安藤氏は、白隠の禅病が高度な霊的発達段階(微細レベル)にみられる病理であるとウィルバーが指摘していることを述べたうえで、次のようにまとめている。


「ウィルバーによれば、微細レベルの病理においては統合・同一化の失敗が引き起こされると述べている。すなわち、微細レベルの基本構造が浮上してくると、これを統合することに支障をきたし、自己と元型との解離が引き起こされる。そしてその解離した元型の断片が、いまだに残されている二元論的認識にからめとられ、対象として眼前に現れることになるという。白隠の禅病には幻覚が出現しており、その内容は具体的に示されてはいないが、おそらく彼が寝ても醒めても悩まされ続けた種々の幻覚とはこの元型的イメージの断片が統合されないまま知覚されたものであろうと推測することができる。またウィルバーは、この段階においては、意識に現れるあらゆるものが恐ろしく感じられ、迫害的で嫌悪をもよおし、痛みを伴い、いやなものとして姿を現し、非常な身体的苦痛や強烈な精神的霊的不快感に襲われると述べている。そしてそうした事態は必ずしも病理的事態ではなく、この段階においてはむしろ正常の過程であるとし、これはそのプロセスをあまりに早く進ませようとし、その魂がその苦悩のなかで立ち往生してしまう時に現れてくるとしている」(「瞑想の精神医学」春秋社より)


少し難しいので、若干の補足説明を加えておく。 まず、ウィルバーの発達理論についてだが、人間の意識成長の各段階では、ひとつ下の段階で引き起こされた分離・分裂・解離といった現象が統合されることによって、成長段階が一段上がるという。しかし、その段階でも固有の分離・分裂・解離が引き起こされ、それがまた統合されることによって、さらに一段階上に上がる。このプロセスを繰り返すことによって、人間の意識は成長するのだという。つまり、どの発達段階においても、分離と統合というプロセスをはしょって一段階上がることはできない。学校教育に「飛び級」はあっても、人間の意識の成長・発達に「飛び級」はない。

もちろん下の段階で経るプロセスと上の段階で経るプロセスは、構造上は同じでも中身は全然違う。それぞれの段階で起こり得る病理も違うし、その病理への対処法もおのずと異なる(詳しくは、ウィルバー理論に直接触れることをお薦めする)。
 白隠がこの時点で到達していたと思われる「微細レベル」では、その下のレベル(心霊レベル)と違って、瞑想を停止することは治療にはならず、さらに瞑想を続けるしか方法はないという。


その点において白隠の対処法は正しかったのだろうが、いささか性急に事を運びすぎたのかもしれない。ウィルバーが指摘している対処法と、白隠が実際に実践した対処法とは、似ているところもあれば違うところもあるようだが、そのあたりは、ここではあえて詳しく触れないでおく。 重要な点は、白隠はそうした自分の窮状に対し、独自の対処法を編み出して実践し、三年後には病状が完全な自然治癒に至り、42歳のときには大悟を得、その後84歳で没するまで、ほとんど無病で過ごした、という点にあるだろう。さらに、白隠の実践した方法は、ある種の健康法として現代でも十分に通用するものだという。 もちろん私は、白隠が到達した境地と自分自身の現状とを重ね合わせるほど身の程知らずではない。 それを踏まえたうえで、私としては次の二つの疑問にぶち当たる。


〇チャネリングによって私がコンタクトを取っている(と称している?)存在とは、私の現在の発達段階に起因する「知覚化された元型の二元論的断片」だろうか。

〇そもそもチャネリングという現象は、人間の意識発達のどの段階に位置するのか(あるいはどこにも当てはまらないのか)?


ウィルバー理論を踏まえた安藤治氏の禅病に関する説明に「元型」という概念が登場するが、これはユング心理学において、睡眠時の夢に登場するイメージや象徴を生み出す源となる心的構造を表す。
 私たちはDNAによって祖先から遺伝的特徴を引き継ぐが、それと同じように、ユング心理学において想定される集合的無意識のなかには、太古から引き継がれる心的な根本構造が存在するとされている。それを「元型」と呼んでいるわけだが、元型は無意識における力動の作用点であり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用するという。元型という構造そのものが夢に現れるわけではなく、通常はその「作用像(イメージや象徴)」として現れる。典型的な元型の作用像としては「老賢人(オールドワイズマン)」「太母(グレートマザー)」「アニマ(男性の中の女性性)」「アニムス(女性の中の男性性)」などがある。


もし、私がチャネリングによってコンタクトしているラムジーさんやサマンサやサラさんといった存在が、私の元型像だとするなら、さしずめラムジーさんが「老賢人」、サマンサが「アニマ」、サラさんが「太母」といったところだろうが、彼らが私にとって「元型像」ではないという確信が私にはある。なぜなら、彼らはただの一度も私の夢に現れたことがないからだ。 もちろん、彼らが私にとって元型像ではなかったとしても、そのことだけで、彼らが単なる私の幻覚ではなく、実体を伴う存在であるという証拠にはならないだろう。 実在の人物も一種の「元型像」として夢に登場し得ることを考えるなら、私の夢にまったく登場しない彼らは、存在のあり方がそもそも私たちとは異なることを物語っているのかもしれない。


これは、小説の中でも少し触れたことなのだが、瞑想や禅の修行中に、まるで夢に元型像が現れるように、リアルな幻覚が現れることがある。それを禅宗では「魔境」と呼び、修行の未熟さが原因で現れる現象であるため避けて通るべきとされ、そうしたものが出現した場合、即座に打ち消すように指導されるという。

チャネリングとは、禅宗が「魔境」と呼んで避けて通る領域に、あえて踏み込む試みなのだろうか? 少なくとも、私がコンタクトしている相手は、私に何も強要しない。私が彼らのことをどのように解釈しようが自由であり、あえてチャネリングする必要もない、と彼らは言う。 ならば、そもそもチャネリング・プロセスとは、人間の意識発達の諸段階とは無関係に進行する営みなのだろうか。



ここで、非常に興味深い指摘をご紹介しよう。 「オープニング・トゥ・チャネル」(ナチュラルスピリット)という本には、チャネリング(特に意識を伴ったコンシャス・チャネリング)が人間の成長にいかに寄与するかが詳細に語られている。

 著者のサネヤ・ロウマンとデュエン・パッカーは、世界的に評価の高い現代を代表するチャネラーといっても過言ではないだろうが、この二人がそれぞれの「ガイド」(つまりチャネリング相手)に導かれて書いたこの本は、「チャネリングとは何か」という本質的な解説はもとより、これからチャネリングを始めてみたいという人のための恰好の「ガイド」となっている。
さらには、チャネラーを育てたいと思う人にとってのよい手引書でもある。 この本で、瞑想とチャネリングの違いについて、かなり明確にしている一節がある。 瞑想の経験者は、チャネリングの能力が拓かれやすいとしながらも、瞑想とチャネリングとでは、「マインド、意図、スピリットの働き」が異なるとしている。



「深い瞑想状態では、何かを思い起こしたり、話したりする必要がほとんどありません。それに対してチャネリングは主として映像とエネルギーと感覚の体験なのです。 瞑想をしている人のほとんどはすでにチャネリングの内的スペースに入ったことがあります。ガイドを呼ぶことがなければ、彼らはチャネリングの内的スペースのすぐ近くを通り過ぎて深い瞑想状態に入り、またその状態から戻ってきます。」
一方、チャネリングはそれほど深い瞑想状態に入らなくても可能だが、その代わりチャネリングの内的スペースに入るドアを自ら見つけてそこへ入り、そこに集中し、焦点を一点に絞る能力が要求されるという。


この指摘でわかる通り、チャネリング・プロセスに入ることは、禅で言う「魔境」に入ることとは本質的に異なる。瞑想中にたまたま見つけた「魔境」の入り口から、興味本意に、あるいは無批判にそこへ入り、修行の横道にそれることではないのだ。魔境の住人たちは修行者を弄び、未熟な修行者の邪魔をするような存在かもしれないが、チャネリングの内的スペースにチャネラーを導き、チャネリング・プロセスのよきガイド役となってくれる存在は、魔境の住人とはまったく異なる。 この本の著者たちも、高次元のガイドと低次の存在とをしっかり見分け、くれぐれもちょっとした好奇心から低次の存在と接触しないよう警告している。


しかし、残念ながら「オープニング・トゥ・チャネル」では、人間の意識の発達段階にてらしてチャネリングが語られているわけではない。私の知る限り、ウィルバーも自身の発達論のどこかにチャネリングを位置づけるといったことをしていない。 ここでは急いで結論を出さないでおこう。 おそらく重要な点は、チャネリングが意識の発達段階のどのレベルに属するか、ということではなく、チャネリング・プロセスが意識レベルをある一定の段階にとどまらせるのか、それともひとつ上の段階へ人を促すのか、ということだろう。

これに関しては、発展途上である私自身の今後の変化をモニターしていくしか結論の出しようがない。実際私は今、自分のチャネリング・プロセスが別の段階に入りつつある(あるいは意図的に一段高いレベルに移行する必要がある)のを感じている。


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