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チャネリングへの道(私はこうしてチャネリングに至った)

「私はなぜ、チャネリングに至ったのか?」



地元での初めての講演が決まり、引き続いて東京の学会での講演も控え、この疑問にどのような答えを出すか、自己分析してみる必要に迫られている。

この機会に、自分の今までの歩みを振り返り、結局自分が何を掘り下げ、何を耕してきたのかを概観してみることにした。



私のもっとも古い記憶は、おそらく三歳か四歳ぐらいのときにみた強烈な悪夢だ。それを今でも鮮明に覚えているが、それ以来、夢は私にとって「解かれるべき謎」という名の隣人となった。

この当時の私は空想好きな子どもで、ぬいぐるみを主人公に見立て、即興で物語を作っては、一日中独り遊びしていた。

そのほか、とにかく手で何かを作るのが好きで、幼稚園時代は粘土細工に興じ、小学校ではプラモデル、長じて木工、絵を描いたり料理を作ることは今でも継続している。

小学校四年生ぐらいで読書に目覚め、六年生では短編小説のようなものを書き始めた。この頃から、自分はいつか長い小説を書く人間になるだろうと漠然と思っていた。実現するまでに、45年ぐらいかかってしまったが・・・。

中学・高校では、とにかく本を読み漁った。小説、詩集、哲学・心理学書など、人文科学系を中心にジャンルを問わず・・・。

大学では劇団に入って演劇に打ち込んだ。頭でっかちになりたくなかったこともあり、肉体表現とドラマツルギーを学ぶためである。

大学を出てから、専門学校でフランス語を(かなり本格的な音声言語学的立場から)学び、コンピュータ・プログラミングもかじった。

職に就いてからは、一貫してデジタルの世界で文章、イラスト、専門書の制作を手掛けてきた。書籍に関しては、印刷と製本以外はすべて自分でやった。



ここまでを総括すると、読み書きは習慣になっていたし、「考えては手を動かし、考えては体を動かし」ということを繰り返していたのだと思う。その根本にあったのは、想像力であり、理性と感性、理論と直観、言語とイメージといった正反対の道具をまんべんなく使う訓練だったように思う。



三十代で、リアルY子先生(小説に登場するキャラクターのモデルとなった人物)との出会いから、本格的に夢の勉強を始める。

同時期に、気の呼吸法の道場に通ったり、クリエイティブ・ビジュアライゼーション(一種の瞑想状態で、特に身近な人々との関係性に創造的な変化をもたらす独特の手法)というものに取り組んだりした。



この頃、バブルが弾け、仕事がなくなり、人生に迷い、大きな方向転換を迫られていた。そこで、私の大きな取り組み課題として浮上してきたのは、人間の心、特に無意識の領域についてだった。夢について本格的に取り組んでみようと思った背景にも、そうした事情がある。

この頃から、目に見えない世界、数式では割り切れない問題、既存の科学的理論では説明のつかない現象を追求してみたいという思いが強くなっていた。



四十代から作詞と音楽プロデュースを始める。人が作ったメロディーに日本語の詞をつけるという営みも、詞とメロディーが一緒になった楽曲を、歌や楽器の演奏とともにひとつの音楽作品へとまとめ上げていくプロデュースの作業も、声や音という波動を読み取り、そこに重要な意味を持たせる試みに違いない。それは私を直接的にチャネリングへと結びつけたと感じる。

音楽活動とシンクロするようにして、都会の暮らしに見切りをつけ、田舎暮らしをスタートさせる。これも私の世界観に地殻変動をもたらした。

そして五十代、心臓発作を起こすが、結局医療に頼らず自分で克服。この体験にも意外な「怪我の功名」のようなものがあったようだ(次の機会に取り上げる)。

3.11を経て、あるセラピーを受けたのをきっかけに、チャネリングを始めることになる。



ざっと振り返ってみて、結局何が私をチャネリングに導いたのか、一言で言えば「眠っている魂のDNAにスイッチが入った」ということではないかと思う。

この表現には、いささか説明が必要だろう。



○まず、DNAというのは、生命科学的現象のはずだが、「魂の~」という前提条件がわざわざつくのは、どういうことか?

○DNAとは、生命を生命たらしめているもともとの原理のはずだから、それが働いていなければ、生命はそもそも存在しえないはずだが、それが「眠っている」とはどういうことか?

○では、そのように理由もわからず眠っているものにスイッチを入れ、目覚めさせるとは、いかなることか?



これらの疑問に、これから一つひとつ考察を加えてみたいと思う。なぜなら、それが本書「コズミック・スピリット」のテーマである「個から全体へ至る道」をさらに掘り下げる第一歩でもあると思うからだ。


3.11をまたいで1~2年の期間のことだったと記憶しているが、ある意味チャネリングに至る前段階のようにして、私はある日突然心臓の発作に見舞われた。朝目が覚めたとたん、心臓を内側からわしづかみにされるような激しい痛みに襲われたのだ。

病院に行き、検査してもらうと、「攣縮性狭心症」という診断だった。動脈硬化などは見受けられないので、手術の必要はなさそうだが、実のところ原因ははっきりしない病気だという。発作予防薬を処方してもらったところ、発作は治まったが、激しい副作用に見舞われた。


医療が対処療法しか提供できず、その対処療法がかえって別の問題を引き起こすなら、いっそのこと、医療にはいっさい頼らず、自分で何とかしてやれと思った。覚悟を決めた自己責任だった。試行錯誤の末、今ではすっかり発作を飼い慣らし、病と折り合いをつけるに至っている。こんなことは、あまり人にはお薦めできないが、病に対するある種のコペルニクス的転回が起きたからこそ、なし得たことだ。その間の事情は小説にも詳しく書いたが、この経験は私がチャネリングに至るひとつの要因でもあったのではないかと思っている。

彼らと繋がってメッセージを受け取る前段階として、瞑想状態から変性意識状態に至るプロセスがあるが、その間「モンキーマインド」がしばらく続く。いわゆる想念・雑念が頭の中をぐるぐると渦巻いて、堂々巡りのような状態になることを、サルが刺激に敏感に反応して右往左往する様にたとえてこう呼ぶ。そのモンキーマインドを抜け、意識のスイッチが切り替わり、ある意味、別の時空(次元)の扉が開かない限り、彼らとは繋がれない。

実は、心臓発作を自分で何とか克服した経験は、モンキーマインドを抜けて、時空の扉を開くための恰好のトレーニングになったのではないかと密かに考えている。



人が悟りや解脱の境地に至るには、セロトニンを脳内に行き渡らせる神経ネットワークを極限まで活性化する必要があるが、その前段階として、ノルアドレナリンのような興奮・緊張状態を作り出す神経の活性化が必要だという研究がなされている。

激しいストレスなどでノルアドレナリン神経が極限まで興奮したうえで、ある種の運動や呼吸法をやると、効率よくセロトニン神経を活性化できる、というのだ。ヨガの行者や苦行僧が厳しい修行の末に悟りの境地に至るのはそのためだと言われている。



心臓発作とその克服は、このプロセスを疑似的になぞったのではないか。「怪我の功名」とはよく言ったものだ。

もちろん私は悟りや解脱に至っているわけではないが、こうしたプロセスの副次的な成果として、チャネリングに至った可能性はある。



ヒトゲノム計画によって、人間の遺伝子のうち、たんぱく質合成にかかわる部分はほぼ解明できたようだが、実はそれは遺伝子全体のわずか3%程度にすぎないという。残りの97%は、何のためにあるのかほとんどわかっていないらしい。ひと頃は「ジャンクDNA」などと呼ばれて、役立たずのように扱われていたが、さすがに何らかの機能があるだろうと言われ始めている。つまり、必要になったときに、そのDNAが眠りから目を覚ます、ということらしい。

日本の遺伝子研究の第一人者である筑波大学名誉教授の村上和雄氏は、人間の眠っている遺伝子をオンにし、潜在的な能力を目覚めさせる方法として、次のようなものをリストアップしている。



○試練を前向きにとらえて乗り越える

○立派でなくとも、小さい目標を持つ

○あえてぎりぎりのところまで自分を追い込んでみる

○積極的に人との出会いを求める

○笑う、感動する、感謝する、愛する、祈る

○環境を変える(安楽な環境から過酷な環境への変更も含む)

○強い志や使命感を持つ

○利他的な活動をする(ボランティアなど)

○チャレンジし続ける(成功・不成功に関係なく、プロセスが重要)

○人と違う部分を引き出して伸ばす

○常にワクワクを考え、イキイキと生きる

○何事も単独の断片でとらえるのでなく、連鎖や相互関係でとらえる

○科学を絶対視せず、目に見えないものにも関心を向ける

(村上和雄「遺伝子オンで生きる」サンマーク出版刊より)



このリストを参考に、眠っている遺伝子が完全オンの人とはどんな人かをプロファイルしてみると・・・



「試練をものともせず、あえて自分を過酷な環境に追い込み、常に笑いと感動と感謝と愛と祈りを絶やさず、強い意志と使命感を持ち、他人の利益だけを追い求め、挫折を知らず、人と違うことを恐れず、物事の連鎖や相互関係をとらえることに長け、科学的世界観にとらわれず、見えないものを見る力を養っている」



どうだろう。何となく宮沢賢治の「雨にも負けず・・・」を思い出すが、こんな人が実際にいるとしたら、すでに悟りを啓いているのではないか。

そう、まさにこのリストは、人が悟りに至るプロセスにおいて、眠っているDNAがオンになるといったことも起こってくることを示唆するものではないだろうか。



「あなたたちの魂から不要な想念をはぎ取ることは、それほど難しいことではありません。しかもそれは、あなたたちの意識進化の第一段階にすぎません。

(中略)

進化の第一段階を踏み出したならば、そこに留まっていてはいけない。歩みをその先に進めるのです。

(中略)

ヒトから人間になったら、人間から超人になるのです。」(ラムジー)



ここでラムジーさんが言っている「ヒト」とは、動物的な本能や欲望に支配されている状態、「人間」とは、愛し愛され、社会に安定した居場所を確保している状態、「超人」とは、人間から一歩踏み出し、神に近づこうとしている(悟りを目指している)状態を表す。

人間的な状態が確保できたなら、そこに留まっていてはいけない、「超人」へと歩みを進めろ、とラムジーさんは言う。



前回述べたが、人が悟りに至るにはセロトニン神経の活性化が必要だが、その前段階としてノルアドレナリン神経の活性化が必要だという。だからといって、悟りに至る第一歩として、私が経験した「怪我の功名」のように「さあ、みんなで心臓発作を起こしましょう」などとは言えないし、「雨にも負けず・・・」を地で行くことも容易なことではなさそうだ。



私が知る限り、「遺伝子オン」効果、ノルアドレナリンとセロトニンの相乗作用を促す効果が期待できて、誰でも無理なく実践できるのは、瞑想だろう。

熟練の瞑想者は、覚醒でも熟睡でも夢見でもない、第四の意識状態に至るという。つまり、身体の生理機能は必要最小限に低下し、身体はほぼ眠りに就いている(いわば感覚遮断)状態で、その反面脳はクリアに覚醒していて、全方位的に活性化している状態だ。このとき、脳波も脳内ホルモンも、千変万化の「オーケストラ状態」になり、人によっては「幽体離脱」などを経験するという。つまり「超感覚」が目覚めるわけだ。

チャネリングの最中、私はこれと非常に似通った状態になるのを感じる。


チャネリングへの道④ 「夢の解読」

今まで一貫してやってきた、夢とのかかわり(見た夢を覚えていて記録に取り、その意味を考える)、本を読み、文章を書き、絵を描き、手作業をし、肉体表現をし、イメージの中で自分の心と対話し、といったことに共通するのは、どうやら「右脳と左脳をまんべんなく耕す」ということらしい。言語とイメージ、論理性と感性、心と体、どちらに偏るわけでもなく、右脳と左脳の連携を常に取りながら、様々なことに取り組む、ということをしてきたのだと思う。



特に夢を掘り下げることは、脳を全方位的に活性化させるのに役立ったろうし、自分が心の奥底で本当は何を感じ、何を望んでいるのかを知る恰好の手がかりとなった。



夢とは、無意識の深みに眠っている事柄が、象徴(シンボル)となって現れる現象だと言われている。夢に登場する人物、動物、植物、建物、場所、風景、あるいは自然現象・・・何であれ、すべて自分の無意識の中にある何かが象徴化して現れたものだというのだ。

「象徴」とは、わかりやすく一言で言うなら「それでしか表せない、何か別のもの」ということだ。たとえば、夢の中に「猫」が現れたなら、それは「猫でしか表すことのできない、何か猫ではないもの」ということだ。その意味は、厳密に言うと、人それぞれ違う。猫を可愛がる夢なのか、猫に引っ掻かれる夢なのかでも、意味合いは違う。だから、言い換えるなら、夢に現れるシンボルとは、夢を見た本人にしか読み解くことのできない記号(暗号)なのだ。夢の意味を読み解くことは、暗号解読にほかならない。

三十代の頃、夢を専門に研究している師匠に弟子入りして勉強していたが、そのとき夢の暗号を読み解く独創的な手法の数々を教えていただいた。それは、理性、論理的思考、感性、想像力、直観力、言語力、絵画的描写力、コミュニケーション力など、ありとあらゆる知的能力を駆使して行う作業だ。読み終わった後は、言い知れぬ達成感とともに、肉体的な疲労とは異なる感覚の何とも言えない消耗感を味わった。右脳と左脳がまんべんなく耕されないはずはない。



ところで、夢はなぜ、無意識の中に眠っている何かを暗号化して本人に提示する、といった回りくどいことをするのだろう。これは私の個人的見解だが、象徴的な表現こそ、もっとも誤解の発生しにくい伝達手段だからではないだろうか。記号(暗号)化されたもののもともとの意味は、その暗号の解き方を知らない限り、知ることはできない。しかしひとたび解き方を覚えたなら、その意味を間違って受け取ることはないだろう。だから、象徴化=記号(暗号)化は、もっとも確実で効率のよいコミュニケーション手段とも言える。

夢は、そうした手段で、私たちに何かを伝えようとしている。その「何か」とは、もちろん、私たち自身が、無意識の奥底で、本当は何を感じ、何を望んでいるか、ということだ。

しかし、少なくとも自分自身は知っていて当然のそうした自分の感覚や願望といったものが、なぜ無意識の底に押し込められ、夢の暗い通路を通って象徴というかたちで暗示されなければならないくらい、厳重にカギがかけられてしまうのだろう。しかも、そうしたカギをこじ開けて、無意識の領域を意識へと転換しない限り、私たち人類が共通に抱える問題の解決には至れないかもしれないのだ。



意識と無意識の関係は、よく海に浮かぶ氷山に喩えられる。水面の上に顔を出している部分(意識)は、ほんの一部にすぎず、氷山の大部分(無意識)は水面下にあって、海に潜らなければその存在を見ることはできない、というわけだ。



小説のクライマックスに「リディア」という、究極の光の存在ともいうべき強烈なキャラクターが登場するが、そのリディアは、こんなことを言っている。



「無意識とは、意識に変換されることを待っている魂の避難場所なのです。」



魂は、何かの都合で、無意識という広大な領域に一時退避している。魂は、無意識が意識に変換されることを待っている。つまり、魂は目覚めたがっている、ということらしい。



夢研究の師匠は、夢について深く掘り下げることを「無意識にくさびを打ち込む」という言い方をしていた。無意識にくさびを打ち込むとどうなるかと言えば、無意識が意識に逆転する。つまり、今までわからなかったことがはっきりわかるようになる。忘れていたことを思い出す。葛藤や悩みが解消される。

ラムジーさんは、高次元世界を「問いが発せられた瞬間に答えがもたらされる世界」だと言っている。そんな世界で、人は悩みようがない。道に迷いようがない。無意識が意識に逆転してしまっては、魂はもはやそこに身をひそめているわけにはいかない。目覚めるしかないわけだ。



しかし、そもそもなぜ魂が目覚めなければならないのだろう。魂が眠りこけたまま、流されるがまま(あるいは何かにコントロールされるがまま)生きていけるなら、そんな楽なことはないのではないか?



守護霊のことを「ダイモーン」というが、幸福とは古代では「ユウダイモニア(eudaimonia)」つまり「喜んだダイモーン」を意味していたそうだ。守護霊を喜ばせるような生き方こそが、人間にとって幸福であるというわけだ。もちろん、魂に則した生き方こそが守護霊を喜ばせる。逆に、どんなに楽だったとしても、魂の要請に従わないような生き方をしていると、しまいに守護霊は怒り出し、強迫的な方法で生き直しを迫ってくる。安易な方向に流れることは、実は苦しいことなのだ。

ある種の強迫観念にとらわれて、生き直しを余儀なくされるような状況とは、魂の目覚めのときが近い証拠だとも言える。



ならば、そもそも「魂」とは何か? そんなものが本当に存在するのか? 存在するなら、そしてそれが私たちにとって大切なものなら、なぜ眠りに就いているのか?



人類が共通に抱える究極の問題を解決するには、その前に開けておかなければならないカギがまだまだたくさんありそうだ。



「私はなぜチャネリングという営為に導かれたのか?」



この疑問を自己分析しているわけだが、すでに二つのポイントを挙げた。

ひとつは、ノルアドレナリンとセロトニンの相互作用によって、普段はあまり経験することのない意識状態、いわゆる変性意識状態、第四の意識状態、あるいは「脳内オーケストラ状態」といったものを経験することで、脳を全方位的に活性化すること。これによって、普段は眠っているDNAが覚醒するだろう。ヨガの行者や修行僧が苦しい修行をするのはこのためである。

その手段として有効なのは、ひとつは「瞑想」だという話をした。

命の危険、人生の危機、臨死体験などをきっかけに、眠っているDNAが覚醒するということもあるだろう。



もうひとつは、夢などを深く掘り下げる(無意識にくさびを打ち込む)ことによって、無意識を意識に変換すること。これによって、普段は無意識の中に身をひそめている魂が覚醒するわけだ。魂が眠りこけたままの人生は、楽なようで実は苦しい。苦しいし、危険ですらある。それは、穴ぼこだらけの道を目隠し状態で歩むようなものであり、あちこちで鳴り響いているアラームを無視し続けることでもある。

無意識を意識の領域へ変換する有効な方法として、夢を掘り下げることと、もうひとつ「影の投影」のような人間の心のメカニズムについてきちんと理解することが必須になってくる。これについては、改めて詳しく取り上げたい。



この二つのポイントのどちらも、一朝一夕に実現できることではない。ある程度継続した取り組みが必要になるだろう。



そして三つ目のポイントは、「地球と絆を結ぶ(グラウンディング)」ということ。実はこれは、人間がこの世に生まれ落ちた瞬間から発生している重要な取り組み課題であるにもかかわらず、意外に無視されたり、見えにくくなったりしている事柄なのだ。特に文明社会の中ではそういう傾向があるようだ。



よく、人の生き方やものの考え方を批判するのに「もっと地に足をつけろ」といった言い方をするが、この場合の「地」とは、地球のことではなく、「現行の社会制度」といった意味合いであり、それに「うまく順応しろ」ということを言いたいのだろう。しかしここで言う「グラウンディング」とは、まったく意味が違う。むしろ、「地に足をつけろ」的なものの言い方こそが、本来のグラウンディングを妨げているとも言える。

では、本来の「グラウンディング」とは何か?



公園などで保護者とともに遊ぶ幼い子どもたちを見ていると、しばらく友だちと遊んでは、たまに保護者のもとに駆け寄ってしがみつき、また友だちの輪に入って遊ぶ、といったことを繰り返している。まるで、バッテリー切れが近い「自動お掃除ロボット」が、いったん自分で充電ステーションに戻り、バッテリーチャージを済ませて、またお掃除に出かけるようなものだ。

あるいは、巨大な母船を出たり戻ったりを繰り返す小型宇宙船のようなものか。

母船あるいは充電ステーションへの帰還頻度、あるいは充電時間は、子どもの年齢が上がるごとに減っていくようにも見える。そのようにして人間の子どもは自立していくのだろう。



このことについて、ラムジーさんは実に巧みな説明をしている。



『宇宙を起源とする魂が、地球としっかりした絆を結ぶということを、「グラウンディング」と呼んでおきましょう。地球の上に、しっかりと二本の足で立つということです。

これは、子どもたちをよく観察してみればわかることですが、地球の住民であることにまだ慣れていない子どもたちは、地球に対して、あるいは地球住民の先輩である周りの大人たちに対して、常にこう問いかけています。

「私はここにいていいのですか? 私はここで、歓迎されていますか? 私の存在は祝福され、受け入れられていますか? 私にとって、ここは安全で居心地のいい場所ですか?」

こんな具合です。

この切実な問いかけに対して、確固とした返答が得られない場合、子どもたちはうまくグラウンディングができず、極めて居心地の悪い思いをします。それでも自分が生まれてきた環境にすがって生きるしかない子どもたちは、イライラを募らせ、しまいには、何らかの破綻をきたすことになります。

一般に、子どもたちがグラウンディングできない原因は、グラウンディングできていない大人たちに囲まれていることにあります。つまり、大人たちが子どもたちのグラウンディングにうまく手を貸してやれない原因は、大人たち自身がグラウンディングできていないことにあるのです。

このグラウンディングとは、いくら稼いでいるかとか、物質的にどれだけ豊かかということには一切関係ありません。どれだけ社会的地位が高く、裕福な人でも、グラウンディングできていない人はいるのです。おそらくその人は、グラウンディングできていない大人たちに育てられたのでしょう。そういう大人が子どもを育てると、またグラウンディングできない子どもにしてしまうことになります。負の連鎖が起きるのです。これを正の連鎖に変えることも、地球人であるあなたたちの責任なのです。

地球との絆の結び方は、人それぞれで構いませんが、大切なことは、自分が地球に祝福され、歓迎されていることを感じることです。あなたが客として訪れた先に歓迎され、手厚いもてなしを受けたとしたら、そこを汚したり破壊したりしようとは思わないはずです。

自分の居場所を持たない人は、脅迫的・破壊的になるのです。』



たいていの親(特に日本人の親?)は、「いい学校を出て、いい会社に就職して、安定した収入を得て、定年まで勤め上げて・・・」といった生き方を子どもに望む。それこそが「地に足をつけ」た生き方だというわけだ。しかし、安定しているはずの巨大企業のトップが資産運用に失敗したら、とたんに経営破綻に陥り、一般社員は首切りの対象にされるし、原発が事故を起こせば、仕事も住処もいっぺんに失うことだってあるのだ。安泰のはずの人生行路にぽっかり空いた穴に突然落ち込んだとき、周りから多少の救援や助言はあったとしても、その穴から脱出するのは、自分の力でしかない。社会的なセーフティネットにほころびが生じたとき、最後に受け止めてくれるのは、物言わぬ「地球」そのものでしかないのかもしれない。

相手が社会(会社?)にしろ地球にしろ、あなたがそれに「しがみついて」いるなら、有事のときには「裏切られた」という思いしか残らないだろうし、それが「絆」と呼べるものなら、何があろうといつでも関係の修復(絆の結び直し)が可能だろう。



かくいう私(著者)自身、地球としっかり絆を結んだ大人たち(親も含めて)に育てられたとは言い難い。だから、自分で仕切り直しをしなければならなかった。東京から自然豊かな場所に引っ越したのも、おそらくそのためだったのだと、今は感じる。



ただし、断わっておくが、たとえば仮に、脱サラして農業に転身したからといって、それだけで必ずしも「地球と絆を結んだ」ことにはならない、ということだ。同じ農業をやるにしても、生産効率といったことだけを重視し、環境にかける負荷などはお構いなしだったら、それは地球も人間も裏切っていることになる。まさに「グローバル企業」「グローバル経済」という名の覇権主義は、そのようにして領土を拡げてきたのだ。

これは、農業に限ったことではない。たとえばグラウンディングできていない専門家たちが科学や技術を手掛けると、発展はするにしろ、人間も地球も平気で裏切る。



ならば、文明以前の古代社会、人間が今よりももっと自然と密着して生きていた(はずの)時代に戻ればいいのか、というとそうではない。文明の「先祖返り」はディープエコロジストたちの常套句ではあるが、ライフスタイルをより自然と密着したものにしたとしても、意識の領域まで「先祖返り」させたのでは、元も子もない。自然の細部に神が宿るからといって、天変地異を収めるために人間の命を生贄に捧げたり、といった世界観に戻ってもいい、というなら話は別だが。



やはり、ここで必要なことは、社会的合理性や科学技術に偏重するのではなく、時計の針を逆回転させるのでもないやり方、ということだろう。そういう意味で、文明が高度に発達し、人間の意識も進化していればいるほど、真の意味での「グラウンディング」はより複雑で困難なものになっていることは否めない。



『産業革命以降の科学や技術は「産業化」という母体から生まれ、成長してきました。今世紀において、科学は「脱・産業化」でなく「超・産業化」しなければなりません。産業と科学技術の結びつきを踏まえたうえで、それを超えるのです。』(ラムジー)



『残念ながら、旧い世界観に戻るという選択肢はありません。なぜなら、程度の差こそあれ、いつの時代にも問題の原因は無知だからです。あなたたちは、「充分に知らない」から「まったく知らない」に戻ることはできないのです。「不充分な知」から「完全なる知」に向かうしかないのです。』(ラムジー)



結論から言うなら、地球環境を無視しても、人間の魂を無視しても、「グラウンディング」はできない。ところが、どうもこの「魂」というやつと地球との関係は、すっかりこじれてしまっていて、修復困難なように思えて仕方がない。なぜなのだろう。



議論の余地はあるだろうが、文明社会どっぷりでいると、グラウンディングできない(あるいはしにくい)大きな理由のひとつは、「条件付け」ではないかと思う。

条件付けとは、簡単に言うと、「もし~なら成立するが、そうでないなら成立しない」という構文で表される。現代文明は、この「条件付け」にすっかり覆いつくされている感がある。たいていの場合は(特に資本主義社会では)、「消費」を促す「動機付け」だ。「動機付け」は「条件付け」の一部だ。「動機付け」は、ある商品を買うか買わないかに限定されるが、高度な「条件付け」が行われている場合、人はその「条件付け」のシステムそのものを、「無条件に」伝播させる「エージェント」と化す。

本来は「無条件」のはずの「愛」さえも、現代文明の中では高度に「条件付け」されている。親が子どもに示す愛ですら、「もしあなたが~なら、愛してあげる。そうでないなら、愛してあげない」という構造になっている。充電ステーションが、自動お掃除ロボットに対し、無条件でエネルギーを充電してくれず、「バッテリーチャージしたければ金を払え」と言っているようなものかもしれない。「条件付け」は、いとも簡単に人を拘束し、コントロールし、洗脳する。

人は、たとえ一時でも、条件付けから解放され、無条件のものを受け取る必要があるだろう。

当然、地球(自然)は、無条件で人間を受け入れている。もし私たちが地球と絆を結ばないなら、無条件のものを他に求めなければならないだろう。重要なことは、もちろん私たちも無条件で地球を受け入れることだ。そうでない限り、魂が目覚めることもない。


朝、目が覚める。

覚めたという感覚のまま、起き上がらず、しばらくその状態に浸る。

それまで見ていたはずの「夢の尻尾」をつかまえる。

その尻尾をたぐり寄せ、夢のボディ全体を無意識の海から引き揚げる。

総体としての夢をまるごと味わう・・・悪夢であろうと、とびきり愉快な夢であろうと・・・

分析はしない(この時点では)。

分析しない代りに、夢学(夢道)の基本を思い出している。

「夢の構成要素は、人物であろうと、動物であろうと、場所、風景、出来事、自然現象、あるいは色や匂いや単純な音やあるひとつの味覚であろうと、すべては自分の一部である」ということ。



起き上がり、トイレで用を足す。まだ半睡半覚状態で、足元がふらついている。

水をコップ一杯飲み、再び寝床に入る。

枕元にあるヘッドホンをつけ、目にアイピローを乗せ、ラジカセのスイッチを入れる。

CDの音が流れる。最近お気に入りで使っているCD(どこへ行くにも持ち歩いている)。

約1時間の音の旅・・・

深呼吸を何度か・・・その後、呼吸を落ち着かせ、額の真ん中に光の玉を意識する。

光の玉は、消えたり再び現れたりする場合もあるし、そのままどんどん大きく育っていく場合もある。

光が大きく育ったら、その中へダイブする・・・。



モンキーマインドがしばらく続く場合もある。

頭の中を雑多な日常的想念が走馬燈のようにグルグル渦巻き、意識が出口のない迷路を彷徨う・・・

サルが様々な刺激に過剰反応して右往左往するような状態・・・

モンキーマインド状態のうちは、おそらく意識は内向きになっている。意識は自我の囲いの中で完結している。

モンキーマインドは、数十分続く場合もある。

約1時間の瞑想タイムをモンキーマインドで費やしてしまう場合もある。

あるいは、CDを聴いているうちに、再び眠りに就いてしまう場合もある。

何にも抵抗はしない。ただ成り行きに任せる。

人類全体のモンキーマインドの集合体について思いをはせる(これもモンキーマインドに違いないのだが・・・)。この「集合モンキーマインド」が、想念のエネルギーとなって、地球全体を覆っている様を小説に書いた。



しかし、やがてモンキーマインドを抜ける瞬間が訪れる。

想念の走馬燈は一瞬にして背景と化す。それはもはや過去となる。

閉じていた扉――時空あるいは次元を超える扉――が開かれ、眼前に視界が広がる・・・。

このとき、おそらく意識は外向きとなる。いや、内と外の区別はなくなる。

私は見ている。何を? 何かだ。いや、何かでさえない。ただ見ている。

私は単なる視線だ。何でも見ることができるだろう。

しかし、何かを見たいという欲望はもはやない。

ただ見ている。ただ、見ている、という状態の至福感に浸っている。

何が見えても、不安も恐怖もいっさいない。



このとき、肉体感覚はほとんど消え失せている。感覚遮断・・・。

変性意識状態に入る前、どこが痛い、どこが痒い、どこが重いといった感覚があっても、この時点ではほとんど感じない。別の知覚が目を覚ます。

おそらくこのとき、魂は肉体の軛(くびき)から少し自由になっている。



ヘッドホンを通してでも、外界の音は聴こえる。人の話し声・・・外を通る車の音・・・

あらゆる音がむしろクリアに聴こえる。しかし心は波立たない。そこに意識を集中しない。

おそらくそのとき意識は、二つの異なる領域を股にかけている。

正確には・・・異なるが、そもそも二つに分かれていない領域・・・

一言で言うなら「今、ここ」



何かが近づいてくるのがわかる。それは、光なのか波動なのか、その両方か・・・

何かの映像の場合も、声の場合も、あるいはひとかたまりの情報の場合もある。

光や波動の場合は、明らかに体に反応が出る。振動を受け取っている。その周波数に同調している。

それを受けて、肉体的な生理(心拍・呼吸・血流など)や脳波やホルモンの分泌具合が変化するのがわかる。

もちろんその変化は、より気持ちのいい状態への変化だ。至福から超・至福へ・・・

それは、自己完結的な肉体的機能、つまり純粋に内部的な変化では到達しえないレベルだと感じる。

つまり、何か(誰か)からもたらされるもの・・・。

そのまま失神してしまうかもしれないというところまでいく場合もある。



波動にも個性がある。穏やかなもの、急激なもの、アップ系とダウン系・・・

アップ系の波動は、その波動とともに体が浮き上がるような感覚になる。

ダウン系の波動は、一種の金縛りのような状態になる。

どんな波動にも共通して言えるのは、その波動の影響から抜けたいと思えば、いつでも抜けられるという点だ。

しかし、そこから抜けたいとは決して思わない。

それは、究極の至福感だから、ただ浸っている・・・

それはセックスの絶頂感にも似ているが、欲望とはいっさい関係ない。

もっと継続的で、もっと純粋で、普遍的で、倫理的でさえある何かだ。

エロスではなく「美」に近い・・・?



ほどなく、姿が見えてくる。その波動の主・・・

テレパシーで言葉を交わす。挨拶し、そこからチャネリングが始まる。

本当は、その状態で満ち足りてしまっているため、私自身はチャネリングなどどうでもよくなる。

それでは何も持ち帰ってこられないので、仕方なく会話を交わす。

傍で待機している記録係に、繋がったことを知らせる。

質問が投げかけられ、それへの答えを通訳する。

そのときおそらくチャネリング相手と私は一心同体なので、どちらがしゃべっているのか区別はつかなくなる。

自作自演だろうと言われても仕方がない。この疑問へは、あくまで主観的な答えしか返せない。

もしこれがすべて私の自作自演だったとするなら、私は自分の演技力に溺れ、うぬぼれ、有頂天になるだろう。

しかし、そうはならない。いや、なれない。演技ではないからだ。受け取っている波動に無抵抗だからだ。

そのときの私は、エゴや我欲といったものからは遠く離れている。

もしそのときの私がエゴや我欲に支配されているなら、不安や懼れや疑念が前面に出るだろう。

そういうものも、ゼロではない。

不思議なことに、私の心にどれだけ不安や懼れや疑念があっても、彼らはお構いなしのようだ。

そんなことにはお構いなく、彼らは波動を送ってよこし、メッセージを送ってよこす。

彼らは、私のエゴを軽々と追い越して、その先へと手招きする。

私はひたすらそれを後追いするしかない。



「人間は、不安や懼れを乗り越え、戦争や貧困や環境破壊などを解決し、真の平和に到達できるのか」

彼らに今まで投げかけてきたありとあらゆる質問は、とどのつまりは、すべてこの究極の問いかけのバリエーションだったのではないかと思うことがある。

彼らもそのことをわかっていて、あらゆる質問に誠意をもって真摯に答えてくれるが、それらに共通する究極の答えというものがあるとしたら、それはいつもこうだ。



「できるだけ多くの人たちをここへ連れていらっしゃい。あなたがここへくるまでにたどった道を、多くの人たちもたどればいい」



それはそうなのだろう。私が歩んでいる道が自己統合への道だとするなら、あらゆる人間もそこへ向かっているはずであり、およそこの世に現前する問題の原因は、分離(統合の反対)だろうからだ。



もちろん、彼らの居場所を訪れることは、スタートであってゴールではない。

旅は続く・・・。





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