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世界平和実現への道

 



今回の学会での講演を、私は次のようなフレーズで締めくくった。

「誰かが戦争のスイッチを押す前に、まったく別のシナリオをスタートさせる必要がある。そのシナリオは、個人からでなければスタートし得ない。」

すると、ある参加者から、次のような質問が出た。

「別のシナリオをスタートさせたとしても、結局戦争のスイッチは押されてしまうのでは? 平和の実現は間に合わないのでは?」


この質問をもう少し嚙み砕いて言えば、

「戦争のスイッチは、私たち一般人の手の届かないところにあり、私たちがいくら平和を願い、その実現のために尽力しようが、戦争を阻止することはできないのでは?」

ということになるだろうか。

これは、世界平和を志す人たち(ここでは仮に「ピースキーパー」と呼んでおこう)が共通に抱くジレンマかもしれない。このジレンマを仮に「間に合わない病」と呼んでおくことにする。

私はこの「間に合わない病」の処方を、今回の限られた講演時間の中でうまく言葉にできたとは思えないので、この場でやってみたいと思う。

確かに、米ソ冷戦以来、核兵器の発射スイッチは、限られた国(大国)のトップの手に握られるようになった。そのスイッチが押されるようなことがあったら(いったん核戦争が始まってしまったら)取り返しのつかない事態になりかねない。これは万国共通の認識だろう。

特に、大国のトップに、自国主義的で、他国に対し強硬な姿勢を取り、緊張を煽るような言動を慎まないタイプの人間が選ばれてしまうと、戦争勃発の危険性は一挙に現実味を帯びてきたりする。

しかし、いまだに戦争のスイッチは押されていない(局地的な紛争は絶えないとしても)。なぜなのだろう。


考えてみれば、過去にもいくらでも「世界の終わり」のタイミングはあった。1999年はノストラダムスが予言したXデーだった。マヤ暦によれば、2012年12月がその日だった。そもそも、いわゆる終末論は、世紀末が訪れる度に浮上してはまた水面下に消えて行った。世界はそうしたタイミングを(うまいこと、あるいはギリギリで?)スルーしてきた。

もっと記憶に新しく、もっと現実的だったのは、キューバ危機かもしれない。人類はそれさえも乗り越えた。なぜなのだろう。

戦争のスイッチを握り、いざとなったらそれを押すことをためらわない、と思っている大国のトップは確かにいる。その一方で、いざとなったらスイッチとトップの指の間に割って入って、スイッチオンを阻止しようとするツワモノがいると想像してみよう。それがトップの側近なのか、ロビーイストなのかはわからないが、そういう筋金入りのピースキーパーたちは、相当数いると仮定してみよう。

キューバ危機のときは、まさに国のトップとその側近たちがピースキーパーだったということが幸いしたのかもしれない。

今からそういう筋金入りのピースキーパーを目指すのもひとつの選択だが、それには時間がかかるし、誰しもがそれを選択できるわけではない。平和とのかかわり方はそれぞれでいい。

問題は、平和の実現をごく一部のピースキーパーたちに任せておけばいいのか、ということだ。

ピースキーパーとまったく逆の立場の人間を考えてみると、問題はもっとわかりやすいかもしれない。そういう人間を仮に「ウォーメイカー」と呼んでおこう。つまり、何が何でも戦争を起こしたいと望んでいるような人間ということだ。理由はいろいろ。経済的な理由か、政治的な理由か、それとももっと情緒的な理由か。おそらくはそれらの複合的な理由だろうが、いずれにしろ、その人間は、一刻も早く戦争が起きることを望んでいる。「いったいいつ戦争が起きてくれるのだろう。早く起きてくれないと間に合わない。自分は戦争が早く起きてくれるためなら、何だってする」といった具合だ。

そういう連中は確かにいて、日々戦争へのシナリオを描き、それを着々と実行に移しているかもしれない。そういうウォーメイカーたちのシナリオの一部として、ピースキーパーたちの間に「間に合わない病」を蔓延させ、「平和の実現は手遅れだ」と思わせるという作戦があったとしたら・・・?

言い方を換えるなら「間に合わない病」の原因は、意図的に作られたものであり、ある種のプロパガンダや刷り込みの成せる業だったとするなら・・・?

ここであえて「陰謀論」に傾かないようにしたいが、いずれにしろ、ピースキーパーが重症の「間に合わない病」に陥って身動き取れなくなるのを喜ぶのはウォーメイカーたちだ。それは間違いない。


世界平和は、極めてデリケートなバランスで成り立っているのかもしれない。一方の極に、戦争のスイッチに直接的に影響を与えることのできる筋金入りのピースキーパーがいる。もう一方の極に、何が何でも戦争を起こしたがっている筋金入りのウォーメイカーがいる。たいていの人がその間にいる。おそらく中間層は、「間に合う・間に合わない」の間で激しく揺れ動いている。

大きな戦争は起きていないにしろ、局地的な紛争が絶えないのは、こうした極めてデリケートな構図が原因とも言えるかもしれない。

ピースキーパーが一人でも増えれば、その分世界は完全平和の方へ(ほんの少しではあれ)傾くだろうし、逆にあなたが重症の「間に合わない病」に陥り、ピースキーパーであり続けることを諦めてしまえば、平和実現の確率は一人分減る。あなたが「手遅れだ」と思った瞬間に、大勢は「手遅れ」の方にほんの少し傾く、というわけだ。

今は、この構図は平和の方にほんの少し傾いているため、大きな戦争は起きずに済んでいるかもしれないが、いつその均衡が崩れ、第三次世界大戦が勃発してしまうかもしれない。それは、あなたが「間に合わない病」をこじらせた挙句に、ピースキーパーであり続けることを諦めてしまった瞬間に起こるかもしれないのだ。

そこで問題は、ピースキーパーの絶対数をいかに減らさず、むしろ増やすか、特に、揺れ動いてしまう人の心をいかに安定させるか、ということに移ってくる。

世の中の大多数の人が激しく揺れ動いていればいるほど、筋金入りのはずのピースキーパーたちも、その大勢に引きずられる。彼らを援護射撃しなければならないはずの一般大衆が、彼らの足を引っ張る結果になってしまう。それだけは防がなければならない。

自らもピースキーパーであり続け、筋金入りのピースキーパーたちをしっかり援護射撃できる体制とはどんなものだろう。

少なくとも、下の人間が上の人間にしっかり進言できる雰囲気、その主張がきちんと採用される雰囲気あるいは社会的な枠組みが必要だ。下の人間が上の人間の顔色を窺い、上の人間の考えを「忖度」してばかりいるような体制でないことだけは確かだ。

さて、「核のボタン」を持つ大国たちの体制はどうだろう。

もちろん、国の体制に責任があるのは、トップ集団だけではない。国の体制はトップと国民の双方で作っている。

その国を形成するほとんどの人が、根深く激しいジレンマに陥っていればいるほど、身動きがとれなくなり、いかなるシナリオも動き出さない。これは確かなことだ。この状態を歓迎するのは誰かを真剣に考える必要がある。

心が激しく揺れ動いている人間は、いとも簡単に、自分が意図しないまったく別のシナリオのエージェント(代行者)に成り下がってしまう。そのメカニズムについて、私は今回の小説に詳しく書いた。

したがって、自分の心の揺れ動き(葛藤)に気づき、それを深く見詰め、それに安定をもたらす(葛藤を統合する)ことこそが、世界平和実現のために必要不可欠であるとも言える。その葛藤は、何も平和にかかわることである必要はない。ごく個人的な葛藤の乗り越えであっても、結果的には世界平和に寄与することになるはずだ。

揺れ動いている中間層の中には、「戦争を望んではいるが、相当数のピースキーパーがいる以上、なかなか形勢は逆転しないだろう」と思っているウォーメイカーもいるだろう。そう思っているからこそ、いきなり大きな戦争を仕掛けるのでなく、局地的な紛争を次々に繰り出しているのかもしれないのだ。

「筋金入りのピースキーパーたちが邪魔で、なかなか大きな戦争には発展しない。仕方がないから局地戦をちょいちょい積み重ねる作戦でいこう」といった具合だ。

ここで言いたいのは、ピースキーパーもウォーメイカーも、お互いの心の中や双方の世界的なバランスについて「忖度」している、ということだ。これこそが「内なる世界地図」ではなかろうか。そうなのだ、誰しもが自分の中にデリケートなバランスの「世界地図」を持っていて、その地図との関連性においてしか世界を捉えてはいない。

すなわち、世界の情勢に影響を与えたいのであれば、自分の中のピースキーパーとウォーメイカーのデリケートな均衡に着目し、自分の中の地図を描き換えるところから始めるしかない、ということだろう。

ただし、双方の世界地図の描き換えには決定的な違いがある。それは、ウォーメイカーの目指すのは「分裂・対立・軋轢」だが、ピースキーパーの目指すのは「融和・統合」であるという点だ。したがって、口では平和を叫びつつ、行動では分裂や対立を生み出しているようなタイプの人間は、ピースキーパーの仮面を被ったウォーメイカーと言わざるを得ない。かなりの辛口で恐縮だが・・・。

まとめよう。

個人の中に平和が見出せない限り、世界に平和が訪れようがない。

「誰かが戦争のスイッチを押す前に、まったく別のシナリオをスタートさせる必要がある。

そのシナリオは、個人からでなければスタートし得ない。」

と言ったのは、まさにそういう意味においてだ。







先日、「平和の実現は間に合うのか?」という記事を書いた。

世界平和を志す「ピースキーパー」たちの共通のジレンマとして、自分たちがどんなに頑張って活動しても、世界平和が実現される前に、戦争のスイッチが押されてしまうかもしれない、という思いがあるのではないか。そんな話から始め、このジレンマを仮に「間に合わない病」と呼んだ。


大方の人間は、世界が平和であることを望んでいるはずだ。それは間違いないだろう。たとえば戦争ビジネスに携わっているような人間(ウォーメイカー)でさえ、自分や自分の家族、親しい人間が火の粉を被るようなかたちで戦火が起きることを望んではいないはずだ。戦争ビジネスは、戦火が対岸の火事である場合に限り、成立する類のものだろう。

自分の周辺に被害が及ばない限り、人は遠い他人がどのような目に会おうと、自分の利益を優先させてしまうような価値観を持ち得る。このような身勝手な価値観が病気かどうかはともかく、いちおう「しょせん他人事病」と呼んでおくとしたら、「間に合わない病」と「しょせん他人事病」は、どこかで似通っていないだろうか?


「間に合わない病」は、「自分一人がどれだけ頑張っても、世界に平和は訪れないかもしれない。自分一人の影響力などしょせんたかが知れている」と考える。「しょせん他人事病」は、「自分が武器を売らなくても、誰かが売るだろうし、紛争はなくなりはしない。世界平和の実現可能性など、しょせんたかが知れている。自分の周りを含めた部分的な平和が担保されていれば、それで充分だ。自分はただニーズがあるからそれに応えているだけだ、経済の原則に従っているだけだ」と言うだろう。

どちらの病も、自分が世界からほんの少し乖離していないだろうか。「自分一人がどのような生き方をしようが、大勢にさしたる影響はない、世界は自分のあずかり知らないところで勝手に動いている」と考えている点で共通していないだろうか。


どちらの病にも、「世界=世界-自分」といった世界観がほの見える。「世界は常に自分の外側にある、自分とはどこか隔絶したところにある。自分は世界の外側あるいは周縁にある」という感覚・・・「世界」という、このおよそコントロール不能な、掴みどころのない、得体の知れない魔物・・・すくい上げようとすると、指の間からこぼれ落ちてしまい、手の中には何も残らない・・・そんな感覚を誰しもが一度は抱いた経験があるかもしれない。

この疎外感、無力感はどこからくるのだろう。「世界と私は一体である。世界=私である」と胸を張って言える人間がどれだけいるだろうか。


この深刻な病が世界に蔓延しているとしたら・・・世界のほとんどの人が、この世界から自分が少なからず乖離し、疎外され(自らを疎外し)、その世界に自分がコミットしたりエンゲージしたりすることに手ごたえが得られず、無力感を感じたり存在の希薄さを抱えているとしたら・・・?

「間に合わない病」や「しょせん他人事病」をこじらせた人間たちが寄り集まって、この世界を作っているとしたら、それはどのような世界だろうか。それ自体がどこかバーチャルな幻想世界ではないだろうか。希薄で手ごたえのない幻のような世界、確固とした基盤を持たない砂上の楼閣・・・。

社会的な適応障害を起こしていると言われる人たち・・・たとえば引き籠もりやパニック障害、鬱、心身症、登校拒否や出社拒否、場合によってはニートも・・・そうした人たちは、このどこかバーチャルで希薄で手ごたえのない幻想世界に対して「ノー」と言い、そこに自分が加わることを拒否し、(無意識的に)それに異議を申し立てているのではないかと思うことがある。

どちらがまともなのだろう、現在通用している規範に収まらない(適応しない)人たちに「不適応」のレッテルを貼る社会か、それともそういう社会を拒否し、異議を申し立てる人たちか?

全人類規模で蔓延しているかに見えるこの「乖離性障害」とも呼ぶべきものの根っこは意外に深い。おそらくその根っこは、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパを中心に大きな影響力を持った「啓蒙思想」にまで遡る。啓蒙思想の基本的なスタンスは、経験的で知覚可能な客観的世界があらかじめあって、それとは独立したかたちで自己あるいは主観があり、その自己あるいは主観が経験的世界の「地図」を描くことが、すなわち妥当な知的認識であるとする考え方だ。

もちろん啓蒙思想は、それまで絶対的だったキリスト教的世界観や封建主義的な思想から人間性を解放するというカウンター思想としての役割を果たしただろう。その基盤の上に科学技術が発達し、産業革命へと繋がったのかもしれない。

しかしその一方で、その経験主義的で感覚主義的な立場は、新たな問題も持ち込んだ。啓蒙思想を乗り越えるためのポストモダンの旗印は、おそらくこうだろう。「啓蒙思想は、なるべく正確にこの経験世界、感覚世界の地図を描こうとし、その地図が正確であればあるほど、それは真理なのだと言うが、そこには地図作成者(つまり主観)が致命的に除外されている」

私たちの魂は、宇宙から地球にやってきて、地球に「グラウンディング」しようとしたはずだ。ラムジーさんによれば、それは壮大な生命の実験のためだったという。つまり地球で生きるためなのだ。肉体を伴って、大地に根を下ろし、地球としっかり絆を結ぶためだったはずだ。

もちろんキリスト教的な絶対的世界観も封建主義思想も、私たちの魂をしっかりと地球に根づかせるためには役不足だった。

そこで私たちは、この地球、自分たちの住処の正確な地図を描くことに夢中になった。それこそがもっとも理性的で人間的なことだと考えたのだ。しかし、私たちの魂が地球にやってきた目的は、地球の地図を描くことではない。それはむしろラムジーさんたちの役目だろう。「地球先遣隊」の役目は、地球と共に生きることだったはずだ。

もし私が啓蒙思想の時代に生きていて、「正確な世界地図を描くのは結構な話ですが、自分の居場所が描かれていない地図こそが真理ないし真理の雛形だと言ってしまって、それで地球を、自分たちの住処を愛せますか?」と言ったとしたら、おそらく「お前は何様だ?! 学者かそれとも新手の宗教家か? お前が愛そうが愛すまいが、この世界はあるのだ」と鼻で笑われたことだろう。結局のところ、啓蒙思想によって奪われたのは、宗教の社会的地位でも経験世界の中の人間の位置づけでもなく、心や意識あるいは魂の生存圏なのだ。

私たちは、自分を除外しつつ地球の地図を描こうとすることによって、つまり主観を排除し、客観性(しばしば科学的客観性)を保とうとするがゆえに、おそらくほんの少し大地から浮足立っている。私たちの魂は、足の降ろしどころに未だに困窮している。足を降ろすべき主体が曖昧なまま、足の降ろしどころばかりを必死に探しているようなものだろう。

私たちは、とっくの昔に乗り越えたはずの古めかしいパラダイムの影響下に依然としてあるようだ。「しょせん他人事病」と「間に合わない病」は、一見戦争と平和という対極に分かれているようで、実は「世界地図の中に、自分の居場所がない、あるいは居場所が希薄である」という点で微妙に共鳴し、魂のグラウンディングを先延ばしにする言い訳を、私たちに提供し続けている。




この日AKは、最終的に例の「再建された王国」(AKと所縁の深い存在たちが集う場所)にたどりついたようだった。
具体的な「誰か」が目の前に現れた、という感覚ではなく、こちらからの質問の内容に応じて、適当な回答者が口を開く、といった風情だった。さながら国際会議といったところだ。
したがって、回答者を特定できないまま、セッションが進んだ。


●どちらさまがいらっしゃいますか。
●(AK)誰でも呼び出せるようです。みなここに揃っているようです。質問に応じてスイッチするようです。

●では、AKからの質問を読み上げます。
分離と対立の傾向が強いアメリカ合衆国大統領が誕生し、世界は統合に向かうどころか、退行現象を起こしているかに見えます。これをどのようにとらえ、どのように対処したら良いのでしょうか。

世界では、毎日様々な人が生まれては死んでいます。国のトップ集団も日々入れ替わっています。戦争を起こすのか、平和を保つのか、分離か統合か、微妙なバランスを保っています。表面に現れていることだけで判断はできません。あなた自身のバランスを保っていて下さい。


●バランスを保つには、具体的にどうすれば良いでしょうか。

分離か統合か、戦争か平和か、独裁か民主か、様々な葛藤があることを理解して下さい。
葛藤があることがわかれば、その瞬間からあなたたちの意識は、乗り越えに向かいます。
葛藤は、ないとしてしまうことがもっとも危険なことです。


●では、先ほど「表面に現れていることだけで判断はできません」とおっしゃいましたが、そこの判断材料とは何ですか。

言葉は、全てを語るわけではありません。誰かが「戦争するぞ」と言ったら、その言葉の裏には「平和を保ちたい」という思いもあることを理解してください。

同様に、「平和が大事だ」と叫ぶ人たちにも、言葉の裏に「対立したい」という思いが隠れていることも理解して下さい。

今、あなたたちの社会にどれだけの葛藤があるかを、漏れなく数え上げることができるなら、やがてあなたたちは、葛藤の源流にまでさかのぼることになるでしょう。今、もっとも隠され、見えにくくなっているのは、その源流の部分です。

葛藤の、そうした歴史、積み重ねに楔(くさび)を打ち込むことができるなら、あなたたちの心は次第に揺らがなくなるでしょう。




2017年5月9日のセッションより(「核」とは、私たち人間の「影」である)



この日用意していた質問の内容からすると、コンタクトする相手としてはラムジーさんが適当かと思ったが、現れたのは意外にもサラさんだった。例の金縛りのようなダウン系の波動がやって来たので、はっきりサラさんだとわかった。


●(AK)サラさんです。

●日本は、大国に囲まれ無防備の状態で、アメリカの傘下にいることでかろうじて生き延びているように思えますが、この状態を続けていていいのでしょうか。

あなたたちは、全員被爆者です。核の傘の下にいるということの本当の意味を知っているのは、あなたたちだけです。そのことを思い出して下さい。
核の傘で地球を守ることはできません。
地球を、もう一度あなたたちの手に取り戻しなさい。


●地球を、もう一度私たちの手に取り戻すには、どうすれば良いのでしょうか。

あなたたちが地中から掘り起こしたものによって、地球が侵略されることを許してはいけません。
核は、あなたたちの影です。影のネットワークが地球を覆っていることを理解して下さい。
守られていると思い込んでいるものに、苛まれていることに気づくのです。
見えないと思い込んでいるものを、あなたたちは見ようとすれば見ることができます。


●(AK)サラさんは今、私の額に指をあてています。「第三の目を開きなさい」というパフォーマンスなのでしょう。サラさんの左半分は、相変わらず見えません。でも、はっきりしていることは、サラさんの見えない左半分も、見えている右半分と同じように美しいということです。
見えているサラさんの顔の半分は、光の中にあり、まるで生まれたてのスターチャイルドのように、純粋無垢に輝いています。
もし今、サラさんの顔の見えている部分と見えていない部分の、その境目に鏡を当てたら、サラさんの顔が完成するのでしょう。
「裏も表も、光も影も同じように美しい」とサラさんは言いたいのかもしれません。


※サラさんはもともと、決して口数の多い存在ではない。言葉よりも、むしろ無言のパフォーマンスで饒舌に語るタイプだ。この日のセッションでも、その「個性」が存分に発揮された。
サラさんに額の真ん中を、その光の指で触れられただけで、何という至福感だろう。何の言葉も必要なくなる。

サラさんはおそらく、今回のセッションを、日本人全体に語りかけるところから始めているが、続くメッセージの内容は、明らかに人類全体に対するものだ。
また、「核」の問題にポイントを絞って語っているが、「核」をメタファーとして、「核」現象に類するすべてのことについて語っていることは明らかだ。

私たちは、様々な国が核武装しようとする動きと、国際的に核軍縮に向かおうとする動きの両方が存在することを認めるところから、問題の解決をスタートさせなければならないだろう。


SF小説も、ハリウッド映画も、そしておそらくある種の文明論も、相変わらず宇宙人による地球侵略といったモチーフを取り上げ続けている。
しかし、実際のところは、私たち自身が地中から掘り起こし、地上にばら撒いたものによって、私たち自身が侵略されかけている(私たち自身が自分たちの住処を、自ら居住困難な場所にしようとしている)、ということをサラさんは伝えようとしているのだろう。
そういう意味で、宇宙からの「侵略者」とは、私たち自身を攻撃しようとしている私たち自身の「影」なのだ。つまり、今私たちが直面している問題とは、日本が生き延びられるかどうか、という問題ではなく、人類全体が自らを淘汰せずに済むかどうか、という問題なのだ。サラさんのパフォーマンスは、私たちがそういう視点に立つことを促している。
サラさんは今回、質問への回答だけでなく、私たちにある問題提起をしているようにも感じる。それは、私たちが、見ようと思えば見えるのに、あまり見たくないという理由で目を背けているものは、実は見えているものと同じくらい美しい、ということだ。
さて、そこであなたに改めて問おう。

「本当は見ようと思えば見えるのに、私たちが見えないと思い込んでいる、あるいは見ようと望まないものとは?」





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