本書(著者)の思想的背景
- ケン・ウィルバーという巨星
- 眠っているDNAを目覚めさせること
- 真の「ハイヤーセルフ」とは?
- 「科学か非科学か」の水掛け論を超えて(2013年3月31日のセッションより)
- イデア、イデオローグ、イデオロギー(2012年12月21日のセッションより)
- モーガン・フリーマン・時空を超えて「宇宙人はどのように思考するのか?」を観て
- あなたの魂の起源は・・・?
本書(著者)の思想的背景
ケン・ウィルバーという巨星
このブログでも度々引用してきたし、これからも引用し続けるだろうケン・ウィルバーという人物について、このあたりでしっかり紹介しておく必要がありそうだ。
ケン・ウィルバーは現存する最も特筆すべき傑出した、世界最高峰の思想家と言い切って過言ではないだろう。それはすでに、ウィルバーに対する世界的な定評にもなっている。いや、おそらく過去数百年を振り返っても、これほどの人は見当たらないだろう。
何がそんなにすごいかと言えば、23歳のときにはすでに、主に心理学の分野で、望まれていながらもそれまで誰も成し遂げられなかった西洋思想と東洋思想の統合を、いわば「意識学」というかたちで成し遂げてしまった、ということ。
それを皮切りに、宗教、科学、物理学、社会学、そして神智学という具合に、あらゆる学問分野を横断して、それらを統一されたひとつの理論的枠組みの中に位置づけ、そしてついに「万物の理論」にまで到達してしまった人なのだ。
そんなウィルバーを、こんなふうに評する人もいるらしい。
「二十一世紀にはまさに三つの選択肢がある。アリストテレス、ニーチェ、さもなければウィルバーだ」
まあ、この一言だけでも、ウィルバーの世界的評価を物語るに充分と言えば充分だが、あえて言うなら、ウィルバーはアリストテレスもニーチェもとっくの昔に乗り越えている、と私は思っている。
もちろん、アリストテレスからもニーチェからも、学ぶべきものはまだまだたくさんあるだろう。しかしウィルバーの出現によって、それぞれの時代を代表するこの二人の偉大な思想家も、すでに「古典(過去の存在)」になってしまった感がある。
つまり、アリストテレスを読むのもニーチェを読むのもいいのだが、今現在の「知の最先端」を知りたければ、真っ先にウィルバーを読むべきなのだ。
ついでだが、ウィルバーを次のように例える人もいるようだ。
「意識研究におけるフロイト」
「心理学におけるアインシュタイン」
もちろん、これらはウィルバーのある一面を語っているにすぎない(しかも初期の)。
つまり、ウィルバーは知の最先端であると同時に知の「全て」なのだ。彼が取り上げるものに取りこぼしはない。
間違いなく天才なのだ。しかも頭脳だけでなく、超イケメンで、鍛え上げられたマッチョな肉体の持ち主でもある。
その生活は極めてストイックで、修行の虫であり、肉体、精神、文化、教養といったあらゆる分野において修練・鍛錬を怠らない。
持って生まれたもの、後から努力して獲得したもの、両方を兼ね備えている。
もちろん、修行を積んで悟りを啓いた賢者・覚者・聖人と呼ばれる人たちは数々いるだろう。しかしそういう人たちは、えてして表現が苦手だったりする。イエスもブッダも、文献を書き残したのは弟子たちだ。逆に、ある分野を極めた研究者・実践者たちは、表現は巧みでも、人間的な修行がまだまだだったりする。しかしウィルバーは両方を極めている。
とにかく、完璧な人間なのだ。あらゆる面において、ここまで人間は進化できるのだという見本のような人である。心憎いばかりだ。
私のような凡人は、少しでも爪の垢を煎じて飲むぐらいしか、この偉大な巨星に近づく道はなさそうだ。
たとえばあなたが、フロイト、ユング、ウィリアム・ジェイムスといった先駆的心理学者たちの本を読む気があるなら、その前にウィルバーを読んでほしい。
もちろん、あなたがピアジェ、マズロー、エリクソン、アサジオリ、スタ二スラフ・グロフなどに代表される、発達心理学、トランスパーソナル心理学、サイコシンセシス、ホリスティック思想といったものに興味があるなら、やはりウィルバーを避けて通ることはできない。
あるいは、たとえばあなたがフーコー、デリダ、レヴィ=ストロース、ドゥルーズ、ラカンといったポストモダンの旗手たちをかじってみたいと思うなら、その前にまずウィルバーを一冊でも読んでみることをお薦めする。
観念論、現象学、記号論、構造主義、実存主義など、いかなるモダンおよびポストモダン思想学派をもってきても、ウィルバーがより本質的・包括的・統合的に語っていない分野はない。
もしあなたが、仏教や禅、あるいはもっと源流に遡って古代インド哲学、もしくは東洋思想全般について勉強してみたいと思うなら、やはりウィルバーをその入り口にすることをお薦めしたい。
あるいはまた、シュタイナー、カスタネダ、クリシュナムルティ、アラン・ワッツ、グレゴリー・ベイトソン、アーサー・ケストラーなど、精神世界や神智学、ニューエイジ、ニューパラダイム、ニューサイエンスといった分野に興味があるなら、やはりウィルバーを水先案内人にすることをお勧めする。
もっとジャンルを飛び越えて、物理学、医学、生物学、進化論、エコロジー、システム論、社会学、教育学、芸術論、あるいは資本論でもいい、文系・理系を問わず、とにかくあらゆる学問分野に関し、あなたが既存の理論に飽き足らず、むしろある種の疑問や問題意識をお持ちなら、ぜひウィルバーが示す方法論に注目していただきたい。
上記のような広範な「知」のジャンルに関し、あなたが包括的に把握すべく、任意の100冊を選んで読む気がおありなら、ウィルバーの著作から任意の10冊を選び、それをそれぞれ10回ずつ読むことをお薦めする。もちろん私がそれをすでにやり終わっているわけではないが。
さて、そんなウィルバーは、日本ではどのように評価され、読まれているのだろう。
ウィルバー思想の日本における紹介者の一人である岡野守也氏は、次のように言う。
「ケン・ウィルバーは、現代アメリカの、というよりは現代の世界の、もっともすぐれた思想家の一人であり、二十一世紀という海図なき嵐の海で漂流・遭難することなく航海し続けるための、今望みうる最善の羅針盤、最高の水先案内人であると思う。」
私も岡野氏に倣ってみよう。
ウィルバーという人は、まるでエベレストのように屹立する「世界の屋根」であり、私たちが道に迷わないように打ち上げられ、私たちに常に正確な「位置情報」を提供してくれる「人工衛星」のような存在だと、私は思っている。
私たちがもしドライブ中に道に迷い、自分の今いる場所をなるべく正確に知りたいと思ったら、GPSを通して人工衛星にアクセスするのがいちばんのはずだ。
まさにウィルバー理論は、私たちが人生の道に迷ったときに、自分の正確な「現在位置」を指し示してくれるだろう。それは個人の人生にとどまらない。全人類の「現在位置」をも示唆する。そして、同時に、私たちが目指すべき最終的な目的地もだ。もちろんそれは、地理的な場所ではないし、過去・現在・未来というような単一方向の時間軸が示すものとも限らない。
今まで私たちは、地球の地図を描いてきた。おそらく宇宙の地図もかなり詳しく描いてきただろう。歴史という名の時間地図もだ。生命進化の地図も、系統樹やゲノムというかたちで描いてきた。私たちは、すでにかなり正確に、この世界の森羅万象の地図を描いているだろう。しかし、その地図には決定的な欠落がある。そこを埋めなければならないし、同時に、欠落も含め、すでに描かれた地図をも含めた、より包括的・統合的な「万物の地図」を描く必要もあるだろう。
ウィルバーがやろうとしたことはそれだ。しかもすでにやり終えた感さえある。
ウィルバーが描いてみせたものは、この世界の最も包括的・網羅的な「地図」であり、おそらくその地図の中での私たちの寄って立つ「居場所」なのだろう。しかし、それでもウィルバーはこう言うだろうが、「地図はあくまで地図であり、現地と混同してはいけない」と。
ウィルバーが描こうと試み、すでに描き終えた感さえあるその「万物の地図」は、あまりにも遠大であるゆえ、おそらく、アメリカのアカデミズムの世界でも、その「地図」の欠点・問題点を必死にあげつらい、何とか論破しようとしたり、ある意味寄ってたかって非難しようとするような動きもあるようなのだが、どんな反論も「部分」なのだ。その地図の全体像は、どのような部分的論破の試みをもってしても、びくともしない。そのような無謀な挑戦をしようとする輩は、木っ端微塵に(文字通り細かい断片に)打ち砕かれる。
それはまるで、「象」という巨大な生き物を描写するのに、ある人はその尻尾だけをあげつらい、「これは象ではない」と言い、またある人はその鼻だけを指差して「これは象ではない」と言って非難しているように聞こえる。それは、極めて不毛で空虚な議論だ。
それには理由がある。
今までの(今でもだろうが)科学がやってきたことは、全体を細部に分解し、分類し、ジャンル分けし、それぞれのジャンルのそれぞれの細部だけを取り出して、それを顕微鏡で眺め、見えるものをツギハギしたものを「全体」と呼ぶようなことだった(いや、ツギハギさえしてこなかったかもしれない)。しかも、その全体的地図世界からは、地図作成者本人が決定的に欠落していた。もちろんそれは本当の「全体」とは呼び難い。
一方ウィルバーは、地図作成者本人も含めた(主観も客観も含めた)全体地図を常に描こうとしてきた。細部も重要だが、まずは全体。各論にいく前に概論が間違っているのでは話にならない、といったところだろうか。
おそらくその単純明快な「真理」を、ウィルバーは繰り返し語っているが、人はなかなかそれを信じようとはしないようだ。これは実に困った現象だ。
さて、そんなウィルバーは、日本でどれだけの知名度があり、その著書はどれだけ広く深く読まれているのだろうか。
ちなみに本家アメリカで見ると、彼の代表作の一つ『万物の歴史』は刊行直後、全米の人文書のベストセラー第一位になったという。また、有名なところで米国前副大統領アル・ゴアは、ウィルバーの著作を読んで絶賛し、特に『科学と宗教の統合』に推薦文を寄せている。
一方、日本の副首相がウィルバーの本を読んで絶賛するといったことは、逆立ちしても起きないだろう。
ウィルバーの何らかの著作(邦訳)が、人文書のベストセラー第一位になったという話も聞かない。
すでに20冊ぐらいは出ているはずの邦訳も、そのほとんどが絶版状態のようで、大手書店の棚にずらりと揃って並んでいる頼もしい光景など見たことがない。せいぜい古書店で一冊・二冊見かける程度。アマゾンを覗けば、古本が軒並みプレミア価格になってしまっている(つまり、すでに流通在庫がない稀少本扱い)。
どうやら、ごく一部の専門家、研究者か、さもなくばよっぽどの物好き(好事家)ぐらいしか読まない、というのが実情のようだ。
これが日本の知的レベルなのだ。
先日、ビックリすると同時にがっかりし、げんなりもしてしまったことがあった。
広範なウィルバー理論の中でも、人間が意識成長を果たすうえで、あるいは世界に平和を築くうえで、誰もが避けて通れない最も基本的で最重要と思える概念のひとつに「影の投影」というのがあるが、「ケン・ウィルバー 影の投影」でウェブ検索してみたところ、真っ先に出てきたのは、どこかで聞いたことのある怪しげな人間がやっている怪しげな団体のサイトだった。
繰り返して言う、これが日本の知的レベルなのだ。
ケン・ウィルバーは現存する最も特筆すべき傑出した、世界最高峰の思想家と言い切って過言ではないだろう。それはすでに、ウィルバーに対する世界的な定評にもなっている。いや、おそらく過去数百年を振り返っても、これほどの人は見当たらないだろう。
何がそんなにすごいかと言えば、23歳のときにはすでに、主に心理学の分野で、望まれていながらもそれまで誰も成し遂げられなかった西洋思想と東洋思想の統合を、いわば「意識学」というかたちで成し遂げてしまった、ということ。
それを皮切りに、宗教、科学、物理学、社会学、そして神智学という具合に、あらゆる学問分野を横断して、それらを統一されたひとつの理論的枠組みの中に位置づけ、そしてついに「万物の理論」にまで到達してしまった人なのだ。
そんなウィルバーを、こんなふうに評する人もいるらしい。
「二十一世紀にはまさに三つの選択肢がある。アリストテレス、ニーチェ、さもなければウィルバーだ」
まあ、この一言だけでも、ウィルバーの世界的評価を物語るに充分と言えば充分だが、あえて言うなら、ウィルバーはアリストテレスもニーチェもとっくの昔に乗り越えている、と私は思っている。
もちろん、アリストテレスからもニーチェからも、学ぶべきものはまだまだたくさんあるだろう。しかしウィルバーの出現によって、それぞれの時代を代表するこの二人の偉大な思想家も、すでに「古典(過去の存在)」になってしまった感がある。
つまり、アリストテレスを読むのもニーチェを読むのもいいのだが、今現在の「知の最先端」を知りたければ、真っ先にウィルバーを読むべきなのだ。
ついでだが、ウィルバーを次のように例える人もいるようだ。
「意識研究におけるフロイト」
「心理学におけるアインシュタイン」
もちろん、これらはウィルバーのある一面を語っているにすぎない(しかも初期の)。
つまり、ウィルバーは知の最先端であると同時に知の「全て」なのだ。彼が取り上げるものに取りこぼしはない。
間違いなく天才なのだ。しかも頭脳だけでなく、超イケメンで、鍛え上げられたマッチョな肉体の持ち主でもある。
その生活は極めてストイックで、修行の虫であり、肉体、精神、文化、教養といったあらゆる分野において修練・鍛錬を怠らない。
持って生まれたもの、後から努力して獲得したもの、両方を兼ね備えている。
もちろん、修行を積んで悟りを啓いた賢者・覚者・聖人と呼ばれる人たちは数々いるだろう。しかしそういう人たちは、えてして表現が苦手だったりする。イエスもブッダも、文献を書き残したのは弟子たちだ。逆に、ある分野を極めた研究者・実践者たちは、表現は巧みでも、人間的な修行がまだまだだったりする。しかしウィルバーは両方を極めている。
とにかく、完璧な人間なのだ。あらゆる面において、ここまで人間は進化できるのだという見本のような人である。心憎いばかりだ。
私のような凡人は、少しでも爪の垢を煎じて飲むぐらいしか、この偉大な巨星に近づく道はなさそうだ。
たとえばあなたが、フロイト、ユング、ウィリアム・ジェイムスといった先駆的心理学者たちの本を読む気があるなら、その前にウィルバーを読んでほしい。
もちろん、あなたがピアジェ、マズロー、エリクソン、アサジオリ、スタ二スラフ・グロフなどに代表される、発達心理学、トランスパーソナル心理学、サイコシンセシス、ホリスティック思想といったものに興味があるなら、やはりウィルバーを避けて通ることはできない。
あるいは、たとえばあなたがフーコー、デリダ、レヴィ=ストロース、ドゥルーズ、ラカンといったポストモダンの旗手たちをかじってみたいと思うなら、その前にまずウィルバーを一冊でも読んでみることをお薦めする。
観念論、現象学、記号論、構造主義、実存主義など、いかなるモダンおよびポストモダン思想学派をもってきても、ウィルバーがより本質的・包括的・統合的に語っていない分野はない。
もしあなたが、仏教や禅、あるいはもっと源流に遡って古代インド哲学、もしくは東洋思想全般について勉強してみたいと思うなら、やはりウィルバーをその入り口にすることをお薦めしたい。
あるいはまた、シュタイナー、カスタネダ、クリシュナムルティ、アラン・ワッツ、グレゴリー・ベイトソン、アーサー・ケストラーなど、精神世界や神智学、ニューエイジ、ニューパラダイム、ニューサイエンスといった分野に興味があるなら、やはりウィルバーを水先案内人にすることをお勧めする。
もっとジャンルを飛び越えて、物理学、医学、生物学、進化論、エコロジー、システム論、社会学、教育学、芸術論、あるいは資本論でもいい、文系・理系を問わず、とにかくあらゆる学問分野に関し、あなたが既存の理論に飽き足らず、むしろある種の疑問や問題意識をお持ちなら、ぜひウィルバーが示す方法論に注目していただきたい。
上記のような広範な「知」のジャンルに関し、あなたが包括的に把握すべく、任意の100冊を選んで読む気がおありなら、ウィルバーの著作から任意の10冊を選び、それをそれぞれ10回ずつ読むことをお薦めする。もちろん私がそれをすでにやり終わっているわけではないが。
さて、そんなウィルバーは、日本ではどのように評価され、読まれているのだろう。
ウィルバー思想の日本における紹介者の一人である岡野守也氏は、次のように言う。
「ケン・ウィルバーは、現代アメリカの、というよりは現代の世界の、もっともすぐれた思想家の一人であり、二十一世紀という海図なき嵐の海で漂流・遭難することなく航海し続けるための、今望みうる最善の羅針盤、最高の水先案内人であると思う。」
私も岡野氏に倣ってみよう。
ウィルバーという人は、まるでエベレストのように屹立する「世界の屋根」であり、私たちが道に迷わないように打ち上げられ、私たちに常に正確な「位置情報」を提供してくれる「人工衛星」のような存在だと、私は思っている。
私たちがもしドライブ中に道に迷い、自分の今いる場所をなるべく正確に知りたいと思ったら、GPSを通して人工衛星にアクセスするのがいちばんのはずだ。
まさにウィルバー理論は、私たちが人生の道に迷ったときに、自分の正確な「現在位置」を指し示してくれるだろう。それは個人の人生にとどまらない。全人類の「現在位置」をも示唆する。そして、同時に、私たちが目指すべき最終的な目的地もだ。もちろんそれは、地理的な場所ではないし、過去・現在・未来というような単一方向の時間軸が示すものとも限らない。
今まで私たちは、地球の地図を描いてきた。おそらく宇宙の地図もかなり詳しく描いてきただろう。歴史という名の時間地図もだ。生命進化の地図も、系統樹やゲノムというかたちで描いてきた。私たちは、すでにかなり正確に、この世界の森羅万象の地図を描いているだろう。しかし、その地図には決定的な欠落がある。そこを埋めなければならないし、同時に、欠落も含め、すでに描かれた地図をも含めた、より包括的・統合的な「万物の地図」を描く必要もあるだろう。
ウィルバーがやろうとしたことはそれだ。しかもすでにやり終えた感さえある。
ウィルバーが描いてみせたものは、この世界の最も包括的・網羅的な「地図」であり、おそらくその地図の中での私たちの寄って立つ「居場所」なのだろう。しかし、それでもウィルバーはこう言うだろうが、「地図はあくまで地図であり、現地と混同してはいけない」と。
ウィルバーが描こうと試み、すでに描き終えた感さえあるその「万物の地図」は、あまりにも遠大であるゆえ、おそらく、アメリカのアカデミズムの世界でも、その「地図」の欠点・問題点を必死にあげつらい、何とか論破しようとしたり、ある意味寄ってたかって非難しようとするような動きもあるようなのだが、どんな反論も「部分」なのだ。その地図の全体像は、どのような部分的論破の試みをもってしても、びくともしない。そのような無謀な挑戦をしようとする輩は、木っ端微塵に(文字通り細かい断片に)打ち砕かれる。
それはまるで、「象」という巨大な生き物を描写するのに、ある人はその尻尾だけをあげつらい、「これは象ではない」と言い、またある人はその鼻だけを指差して「これは象ではない」と言って非難しているように聞こえる。それは、極めて不毛で空虚な議論だ。
それには理由がある。
今までの(今でもだろうが)科学がやってきたことは、全体を細部に分解し、分類し、ジャンル分けし、それぞれのジャンルのそれぞれの細部だけを取り出して、それを顕微鏡で眺め、見えるものをツギハギしたものを「全体」と呼ぶようなことだった(いや、ツギハギさえしてこなかったかもしれない)。しかも、その全体的地図世界からは、地図作成者本人が決定的に欠落していた。もちろんそれは本当の「全体」とは呼び難い。
一方ウィルバーは、地図作成者本人も含めた(主観も客観も含めた)全体地図を常に描こうとしてきた。細部も重要だが、まずは全体。各論にいく前に概論が間違っているのでは話にならない、といったところだろうか。
おそらくその単純明快な「真理」を、ウィルバーは繰り返し語っているが、人はなかなかそれを信じようとはしないようだ。これは実に困った現象だ。
さて、そんなウィルバーは、日本でどれだけの知名度があり、その著書はどれだけ広く深く読まれているのだろうか。
ちなみに本家アメリカで見ると、彼の代表作の一つ『万物の歴史』は刊行直後、全米の人文書のベストセラー第一位になったという。また、有名なところで米国前副大統領アル・ゴアは、ウィルバーの著作を読んで絶賛し、特に『科学と宗教の統合』に推薦文を寄せている。
一方、日本の副首相がウィルバーの本を読んで絶賛するといったことは、逆立ちしても起きないだろう。
ウィルバーの何らかの著作(邦訳)が、人文書のベストセラー第一位になったという話も聞かない。
すでに20冊ぐらいは出ているはずの邦訳も、そのほとんどが絶版状態のようで、大手書店の棚にずらりと揃って並んでいる頼もしい光景など見たことがない。せいぜい古書店で一冊・二冊見かける程度。アマゾンを覗けば、古本が軒並みプレミア価格になってしまっている(つまり、すでに流通在庫がない稀少本扱い)。
どうやら、ごく一部の専門家、研究者か、さもなくばよっぽどの物好き(好事家)ぐらいしか読まない、というのが実情のようだ。
これが日本の知的レベルなのだ。
先日、ビックリすると同時にがっかりし、げんなりもしてしまったことがあった。
広範なウィルバー理論の中でも、人間が意識成長を果たすうえで、あるいは世界に平和を築くうえで、誰もが避けて通れない最も基本的で最重要と思える概念のひとつに「影の投影」というのがあるが、「ケン・ウィルバー 影の投影」でウェブ検索してみたところ、真っ先に出てきたのは、どこかで聞いたことのある怪しげな人間がやっている怪しげな団体のサイトだった。
繰り返して言う、これが日本の知的レベルなのだ。
眠っているDNAを目覚めさせること
本書の大きなテーマのひとつは「眠っているDNAを目覚めさせる」ということだろう。
本書が、読んだ人の眠っているDNAを本当に目覚めさせるかどうか、今はまだ未知数だが、少なくとも、今読んでいただいている方の傍にいる人が、何かを思い出しつつある、という報告がすでに届いている。読んでいただいているご本人ではなく、その傍にいる人というのが不思議だ。
ヒトゲノム計画によって、人間のDNAのうち、たんぱく質の合成にかかわる部分、つまり肉体を構成する部分に関する解読は終了したようだ。その成果が遺伝子医療といった分野にもすでに応用され始めてもいるだろう。
ところが、たんぱく質合成にかかわるDNAというのは、DNA全体の3%程度にすぎないという。残りの97%が何にかかわっているのかはいまだにわからない。そこでこの97%は、ひところは「ジャンクDNA」などと呼ばれていた。この呼び名は、日本の生物学者大野乾氏による命名らしいが、氏は「使いみちのないガラクタ」というのとはちょっと違う意味でつけたらしい。
その後遺伝子分野の研究がさらに進み、ジャンクとはいえさすがに何らかの機能はあるだろう、ということになりつつあるようだが、いずれにしろ、人間が自分自身についてさえ科学的に解明できている部分など、ほんのわずかであることに違いはない。
それを承知のうえで、それでもその眠っている、あるいは眠っているように見えるだけで、実は何らかの機能を果たしているかもしれないDNAを明確に機能させるにはどうしたらいいか、といった無謀なことを、あえて考えてみよう。
小説では、そのあたりはあえて詳しく書かなかったが、ここで少しばかり科学者の言い分を援用してみたい。
筑波大学名誉教授で日本のバイオテクノロジーの第一人者である村上和雄氏は、人間の眠っている遺伝子をオンにし、潜在的な能力を目覚めさせる方法として、次のようなことを提案している。
○試練を前向きにとらえて乗り越える
○立派でなくとも、小さい目標を持つ
○あえてぎりぎりのところまで自分を追い込んでみる
○積極的に人との出会いを求める
○笑う、感動する、感謝する、愛する、祈る
○環境を変える(安楽な環境から過酷な環境への変更も含む)
○強い志や使命感を持つ
○利他的な活動をする(ボランティアなど)
○チャレンジし続ける(成功・不成功に関係なく、プロセスが重要)
○人と違う部分を引き出して伸ばす
○常にワクワクを考え、イキイキと生きる
○何事も単独の断片でとらえるのでなく、連鎖や相互関係でとらえる
○科学を絶対視せず、目に見えないものにも関心を向ける
(サンマーク出版刊「遺伝子オンで生きる」より)
これらの項目に共通するのは、脳にいかに刺激を与え、活性化させるか、ということのようだ。その刺激として、「自分で自分に試練を与える」とか「自分で自分を追い込む」とか「あえて過酷な環境に身をさらす」といった修行めいたことも含まれているのがミソだ。その理由については小説の中で取り上げたので、ここでは触れないが、実は小説の重要なテーマのひとつでありながら、このリストに載っていない決定的な項目があると思うので、それだけはここで挙げておきたい。
人間の脳を活性化させ、眠っているDNAを目覚めさせるのに、もっとも有効かつ有意義な取り組みであると著者が考えているのは、一言で言うと「地球と絆を結ぶ」ということである。やや抽象的なので、具体的に言うと、休みの日に自然の中に出て行って、キャンプを張るといったことでも何でもいい。普段は都会の暮らしどっぷりという人であればあるほど、もちろんリフレッシュにはなるだろうし、実はそれ以上の重要な意味合いを、著者は考えている。
著者のチャネリング・ソースによると、「文明が自然と共存できる境界線を超えてしまったとき、その文明は滅ぶ」という。過去に文明が滅んだ原因は、例外なくそれだという。
現代文明が滅ぶかどうかはわからないが、かなり境界線を超えつつあるのは確かではないだろうか。
現代文明は、「エコロジーかエコノミーか」といった大きな葛藤を抱えているようだ。おそらく、葛藤のどちらか一方の極に振り切れることは、最終的な解決策ではないだろう。
エコノミーに振り切れると、どのようなカタストロフィーが訪れるかを、私たちは3.11でイヤというほど味わったはずだ。しかし現状の考え方でのエコロジーに振り切れることも答えではない。どちらに振り切れても破壊的だ。現状の社会体制ではエコロジーとエコノミーの両立は難しい。
ところで、そもそもなぜ人間は眠っている遺伝子をオンにしたがるのだろう。現状を超えて変化を求める欲望とは、そもそもどこからくるのか。上記のリストを実行に移すことは、決して楽な生き方ではないはずだ。しかしそれを選び取ろうとする願望が、確かに誰の中にも息づいている。人類が滅亡を回避し、地球と真の絆を結び、エコロジーとエコノミーの葛藤にケリをつけられるかどうかも、実はこの隠された願望にカギがあるのではないかと、著者は密かに思っている。
本書が、読んだ人の眠っているDNAを本当に目覚めさせるかどうか、今はまだ未知数だが、少なくとも、今読んでいただいている方の傍にいる人が、何かを思い出しつつある、という報告がすでに届いている。読んでいただいているご本人ではなく、その傍にいる人というのが不思議だ。
ヒトゲノム計画によって、人間のDNAのうち、たんぱく質の合成にかかわる部分、つまり肉体を構成する部分に関する解読は終了したようだ。その成果が遺伝子医療といった分野にもすでに応用され始めてもいるだろう。
ところが、たんぱく質合成にかかわるDNAというのは、DNA全体の3%程度にすぎないという。残りの97%が何にかかわっているのかはいまだにわからない。そこでこの97%は、ひところは「ジャンクDNA」などと呼ばれていた。この呼び名は、日本の生物学者大野乾氏による命名らしいが、氏は「使いみちのないガラクタ」というのとはちょっと違う意味でつけたらしい。
その後遺伝子分野の研究がさらに進み、ジャンクとはいえさすがに何らかの機能はあるだろう、ということになりつつあるようだが、いずれにしろ、人間が自分自身についてさえ科学的に解明できている部分など、ほんのわずかであることに違いはない。
それを承知のうえで、それでもその眠っている、あるいは眠っているように見えるだけで、実は何らかの機能を果たしているかもしれないDNAを明確に機能させるにはどうしたらいいか、といった無謀なことを、あえて考えてみよう。
小説では、そのあたりはあえて詳しく書かなかったが、ここで少しばかり科学者の言い分を援用してみたい。
筑波大学名誉教授で日本のバイオテクノロジーの第一人者である村上和雄氏は、人間の眠っている遺伝子をオンにし、潜在的な能力を目覚めさせる方法として、次のようなことを提案している。
○試練を前向きにとらえて乗り越える
○立派でなくとも、小さい目標を持つ
○あえてぎりぎりのところまで自分を追い込んでみる
○積極的に人との出会いを求める
○笑う、感動する、感謝する、愛する、祈る
○環境を変える(安楽な環境から過酷な環境への変更も含む)
○強い志や使命感を持つ
○利他的な活動をする(ボランティアなど)
○チャレンジし続ける(成功・不成功に関係なく、プロセスが重要)
○人と違う部分を引き出して伸ばす
○常にワクワクを考え、イキイキと生きる
○何事も単独の断片でとらえるのでなく、連鎖や相互関係でとらえる
○科学を絶対視せず、目に見えないものにも関心を向ける
(サンマーク出版刊「遺伝子オンで生きる」より)
これらの項目に共通するのは、脳にいかに刺激を与え、活性化させるか、ということのようだ。その刺激として、「自分で自分に試練を与える」とか「自分で自分を追い込む」とか「あえて過酷な環境に身をさらす」といった修行めいたことも含まれているのがミソだ。その理由については小説の中で取り上げたので、ここでは触れないが、実は小説の重要なテーマのひとつでありながら、このリストに載っていない決定的な項目があると思うので、それだけはここで挙げておきたい。
人間の脳を活性化させ、眠っているDNAを目覚めさせるのに、もっとも有効かつ有意義な取り組みであると著者が考えているのは、一言で言うと「地球と絆を結ぶ」ということである。やや抽象的なので、具体的に言うと、休みの日に自然の中に出て行って、キャンプを張るといったことでも何でもいい。普段は都会の暮らしどっぷりという人であればあるほど、もちろんリフレッシュにはなるだろうし、実はそれ以上の重要な意味合いを、著者は考えている。
著者のチャネリング・ソースによると、「文明が自然と共存できる境界線を超えてしまったとき、その文明は滅ぶ」という。過去に文明が滅んだ原因は、例外なくそれだという。
現代文明が滅ぶかどうかはわからないが、かなり境界線を超えつつあるのは確かではないだろうか。
現代文明は、「エコロジーかエコノミーか」といった大きな葛藤を抱えているようだ。おそらく、葛藤のどちらか一方の極に振り切れることは、最終的な解決策ではないだろう。
エコノミーに振り切れると、どのようなカタストロフィーが訪れるかを、私たちは3.11でイヤというほど味わったはずだ。しかし現状の考え方でのエコロジーに振り切れることも答えではない。どちらに振り切れても破壊的だ。現状の社会体制ではエコロジーとエコノミーの両立は難しい。
ところで、そもそもなぜ人間は眠っている遺伝子をオンにしたがるのだろう。現状を超えて変化を求める欲望とは、そもそもどこからくるのか。上記のリストを実行に移すことは、決して楽な生き方ではないはずだ。しかしそれを選び取ろうとする願望が、確かに誰の中にも息づいている。人類が滅亡を回避し、地球と真の絆を結び、エコロジーとエコノミーの葛藤にケリをつけられるかどうかも、実はこの隠された願望にカギがあるのではないかと、著者は密かに思っている。
真の「ハイヤーセルフ」とは?
ヒンドゥー教のヴェーダーンタ(古代インド哲学の主流派)の古い物語に、こんなのがある。
ある男が、悟りを啓いた賢者の許を訪ねる。賢者は教えを簡単に要約して説明する。あなたの高次の「自己」は、ブラフマン(宇宙を総べる根本原理)とひとつである。ブラフマンがこの世のすべてを創造するのだから、あなたの高次の「自己」が一切を創造するのである。
自分と創造主(神)が一体であることを確信した男は、帰り道、象に乗った調教師と出くわす。男は、もし自分が神なら、象は自分を傷つけることはできないはずだと思い、道の真ん中に立ちはだかる。象の調教師は「そこを退け!」と怒鳴り続けるが、男は動こうとせず、結局象に踏みつぶされてしまう。男は、足を引きずりながら賢者の許へ戻り、自分と神はひとつのはずだから、象は自分を傷つけるべきではなかった、と説明する。すると賢者が言う。
「もちろんそうです。あらゆるものは確かに神です。それで、神がそこを退けと言ったとき、なぜ言う通りにしなかったのですか?」
「ハイヤーセルフ」という言葉がある。日本語では「上位自己」とか「高次の自己」とか「超自我」などと訳したりする。もちろん「自己」とか「自我」とは自分自身のことだが、それでは「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」という言い方はできるだろうか?
ラムジーさんは、ハイヤーセルフについて、こんなふうに語っている。
ハイヤーセルフとは、個人の自我を超えたところにあります。
ここに二人の人間がいるとします。その二人の関係性は、恋人、夫婦、兄弟あるいは親子、何でも構いません。その二人の間にある問題が発生したとします。二人は、そのことについて、何時間も、場合によっては何日も、あるいは何ヶ月も、十分に話し合いを続け、ついにある解決策に到ったとします。それは、どちらかの立場を優先し、どちらかを捨てるということではなく、あるいは、お互いに妥協するわけでもなく、どちらかの意見にもう一方が承服するわけでもない、そんな解決策だったとします。それはお互いにとって、最良の策であり、あらゆるアイデアの上位に立つものです。そうした解決策が、長い話し合いの末、まるで雷に打たれるようにして二人の頭の中に、ほとんど同時にひらめいたとします。一人であれこれと思い悩んでいては、絶対に出てこなかっただろうと思えるような解決策だと二人とも納得しました。さて、この解決策はいったいどこからやってきたのでしょう。自分の中から沸いて出たというよりも、まるで自分を超えた何かからもたらされたと、二人とも思えてなりません。つまりこの解決策は二人の人間の「中」にあるのではなく、二人の「間」にあるといえます。これがハイヤーセルフです。
つまり、ハイヤーセルフとは、個人の中の狭い自我の外にある、自我を超越したところにある、しかし紛れもなく自分自身と繋がっている意識、と言ったらいいでしょうか。
人が一人増えて三人になったとします。同じように三人が共通に抱える問題の解決策が、三人の自我を超えたところからもたらされたとします。これが仮に百人になった場合も、同じことが起きる可能性はあります。
このように、個人の意識は、ハイヤーセルフを媒介として無限に広げていくことができるのです。全人類が共通に抱える問題に対して、たった一人の個人がその解決策を見出すこともできます。また、地球を外側から眺めるような、宇宙的視点にまで意識を持っていくこともできないわけではありません。
象やその調教師も「神」であることに思いが至らず、象に踏みつぶされてしまう男は、ラムジーさんが語るハイヤーセルフとは対極にあるような意識状態と言えるだろう。
では、たとえば「ファシズム」のような現象はどうだろう。ヒットラーという一人の狂人の熱狂が伝染するようにして多くの国民の間で合意が形成され、あのような凶行に及んだと捉えるなら、それもハイヤーセルフのなせる業なのか?
象に踏みつぶされた男の頭の中の「神」は、明らかに「ドグマ(独善)」だ。もちろんドグマは個人の意識をどんどん狭めていく。ドグマが集団化すると「イデオロギー」に発展する。「ファシズム」はもちろん究極のイデオロギーだろう。「ドグマ→イデオロギー→ファシズム」という流れが、どうやらありそうだ。人間の意識をどんどん狭めていくものが、どんどん広く流布するというのは恐ろしい話だ。
一方、ハイヤーセルフという概念は、個から出発してはいるものの「超個」に向かうものであると言えそうだ。
ケン・ウィルバーは、上記のヴェーダーンタの物語を引き合いに出し、「より高い<自己>」との同一化だけで意識の拡大を語ることの危険性を指摘しつつ、ブラフマンとの同一化の筋道を次のように巧みに表現している。
「コミュニケーションからコミュニオンに、コミュニオンからユニオンに、ユニオンからアイデンティティ―至高のアイデンティティ―に・・・」
訳すなら「意思疎通から交わりに、交わりから合体に、合体から同一化―至高の同一化―に・・・」といったところか。この筋道がいかに遠く困難で、その到達点がいかに究極のものかは想像に難くない。
もちろん、この筋道に「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」などという言い方は成立しない。
ある男が、悟りを啓いた賢者の許を訪ねる。賢者は教えを簡単に要約して説明する。あなたの高次の「自己」は、ブラフマン(宇宙を総べる根本原理)とひとつである。ブラフマンがこの世のすべてを創造するのだから、あなたの高次の「自己」が一切を創造するのである。
自分と創造主(神)が一体であることを確信した男は、帰り道、象に乗った調教師と出くわす。男は、もし自分が神なら、象は自分を傷つけることはできないはずだと思い、道の真ん中に立ちはだかる。象の調教師は「そこを退け!」と怒鳴り続けるが、男は動こうとせず、結局象に踏みつぶされてしまう。男は、足を引きずりながら賢者の許へ戻り、自分と神はひとつのはずだから、象は自分を傷つけるべきではなかった、と説明する。すると賢者が言う。
「もちろんそうです。あらゆるものは確かに神です。それで、神がそこを退けと言ったとき、なぜ言う通りにしなかったのですか?」
「ハイヤーセルフ」という言葉がある。日本語では「上位自己」とか「高次の自己」とか「超自我」などと訳したりする。もちろん「自己」とか「自我」とは自分自身のことだが、それでは「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」という言い方はできるだろうか?
ラムジーさんは、ハイヤーセルフについて、こんなふうに語っている。
ハイヤーセルフとは、個人の自我を超えたところにあります。
ここに二人の人間がいるとします。その二人の関係性は、恋人、夫婦、兄弟あるいは親子、何でも構いません。その二人の間にある問題が発生したとします。二人は、そのことについて、何時間も、場合によっては何日も、あるいは何ヶ月も、十分に話し合いを続け、ついにある解決策に到ったとします。それは、どちらかの立場を優先し、どちらかを捨てるということではなく、あるいは、お互いに妥協するわけでもなく、どちらかの意見にもう一方が承服するわけでもない、そんな解決策だったとします。それはお互いにとって、最良の策であり、あらゆるアイデアの上位に立つものです。そうした解決策が、長い話し合いの末、まるで雷に打たれるようにして二人の頭の中に、ほとんど同時にひらめいたとします。一人であれこれと思い悩んでいては、絶対に出てこなかっただろうと思えるような解決策だと二人とも納得しました。さて、この解決策はいったいどこからやってきたのでしょう。自分の中から沸いて出たというよりも、まるで自分を超えた何かからもたらされたと、二人とも思えてなりません。つまりこの解決策は二人の人間の「中」にあるのではなく、二人の「間」にあるといえます。これがハイヤーセルフです。
つまり、ハイヤーセルフとは、個人の中の狭い自我の外にある、自我を超越したところにある、しかし紛れもなく自分自身と繋がっている意識、と言ったらいいでしょうか。
人が一人増えて三人になったとします。同じように三人が共通に抱える問題の解決策が、三人の自我を超えたところからもたらされたとします。これが仮に百人になった場合も、同じことが起きる可能性はあります。
このように、個人の意識は、ハイヤーセルフを媒介として無限に広げていくことができるのです。全人類が共通に抱える問題に対して、たった一人の個人がその解決策を見出すこともできます。また、地球を外側から眺めるような、宇宙的視点にまで意識を持っていくこともできないわけではありません。
象やその調教師も「神」であることに思いが至らず、象に踏みつぶされてしまう男は、ラムジーさんが語るハイヤーセルフとは対極にあるような意識状態と言えるだろう。
では、たとえば「ファシズム」のような現象はどうだろう。ヒットラーという一人の狂人の熱狂が伝染するようにして多くの国民の間で合意が形成され、あのような凶行に及んだと捉えるなら、それもハイヤーセルフのなせる業なのか?
象に踏みつぶされた男の頭の中の「神」は、明らかに「ドグマ(独善)」だ。もちろんドグマは個人の意識をどんどん狭めていく。ドグマが集団化すると「イデオロギー」に発展する。「ファシズム」はもちろん究極のイデオロギーだろう。「ドグマ→イデオロギー→ファシズム」という流れが、どうやらありそうだ。人間の意識をどんどん狭めていくものが、どんどん広く流布するというのは恐ろしい話だ。
一方、ハイヤーセルフという概念は、個から出発してはいるものの「超個」に向かうものであると言えそうだ。
ケン・ウィルバーは、上記のヴェーダーンタの物語を引き合いに出し、「より高い<自己>」との同一化だけで意識の拡大を語ることの危険性を指摘しつつ、ブラフマンとの同一化の筋道を次のように巧みに表現している。
「コミュニケーションからコミュニオンに、コミュニオンからユニオンに、ユニオンからアイデンティティ―至高のアイデンティティ―に・・・」
訳すなら「意思疎通から交わりに、交わりから合体に、合体から同一化―至高の同一化―に・・・」といったところか。この筋道がいかに遠く困難で、その到達点がいかに究極のものかは想像に難くない。
もちろん、この筋道に「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」などという言い方は成立しない。