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本書(著者)の思想的背景

このブログでも度々引用してきたし、これからも引用し続けるだろうケン・ウィルバーという人物について、このあたりでしっかり紹介しておく必要がありそうだ。


ケン・ウィルバーは現存する最も特筆すべき傑出した、世界最高峰の思想家と言い切って過言ではないだろう。それはすでに、ウィルバーに対する世界的な定評にもなっている。いや、おそらく過去数百年を振り返っても、これほどの人は見当たらないだろう。

何がそんなにすごいかと言えば、23歳のときにはすでに、主に心理学の分野で、望まれていながらもそれまで誰も成し遂げられなかった西洋思想と東洋思想の統合を、いわば「意識学」というかたちで成し遂げてしまった、ということ。

それを皮切りに、宗教、科学、物理学、社会学、そして神智学という具合に、あらゆる学問分野を横断して、それらを統一されたひとつの理論的枠組みの中に位置づけ、そしてついに「万物の理論」にまで到達してしまった人なのだ。



そんなウィルバーを、こんなふうに評する人もいるらしい。

「二十一世紀にはまさに三つの選択肢がある。アリストテレス、ニーチェ、さもなければウィルバーだ」

まあ、この一言だけでも、ウィルバーの世界的評価を物語るに充分と言えば充分だが、あえて言うなら、ウィルバーはアリストテレスもニーチェもとっくの昔に乗り越えている、と私は思っている。

もちろん、アリストテレスからもニーチェからも、学ぶべきものはまだまだたくさんあるだろう。しかしウィルバーの出現によって、それぞれの時代を代表するこの二人の偉大な思想家も、すでに「古典(過去の存在)」になってしまった感がある。

つまり、アリストテレスを読むのもニーチェを読むのもいいのだが、今現在の「知の最先端」を知りたければ、真っ先にウィルバーを読むべきなのだ。



ついでだが、ウィルバーを次のように例える人もいるようだ。

「意識研究におけるフロイト」

「心理学におけるアインシュタイン」

もちろん、これらはウィルバーのある一面を語っているにすぎない(しかも初期の)。

つまり、ウィルバーは知の最先端であると同時に知の「全て」なのだ。彼が取り上げるものに取りこぼしはない。



間違いなく天才なのだ。しかも頭脳だけでなく、超イケメンで、鍛え上げられたマッチョな肉体の持ち主でもある。

その生活は極めてストイックで、修行の虫であり、肉体、精神、文化、教養といったあらゆる分野において修練・鍛錬を怠らない。

持って生まれたもの、後から努力して獲得したもの、両方を兼ね備えている。

もちろん、修行を積んで悟りを啓いた賢者・覚者・聖人と呼ばれる人たちは数々いるだろう。しかしそういう人たちは、えてして表現が苦手だったりする。イエスもブッダも、文献を書き残したのは弟子たちだ。逆に、ある分野を極めた研究者・実践者たちは、表現は巧みでも、人間的な修行がまだまだだったりする。しかしウィルバーは両方を極めている。

とにかく、完璧な人間なのだ。あらゆる面において、ここまで人間は進化できるのだという見本のような人である。心憎いばかりだ。

私のような凡人は、少しでも爪の垢を煎じて飲むぐらいしか、この偉大な巨星に近づく道はなさそうだ。



たとえばあなたが、フロイト、ユング、ウィリアム・ジェイムスといった先駆的心理学者たちの本を読む気があるなら、その前にウィルバーを読んでほしい。

もちろん、あなたがピアジェ、マズロー、エリクソン、アサジオリ、スタ二スラフ・グロフなどに代表される、発達心理学、トランスパーソナル心理学、サイコシンセシス、ホリスティック思想といったものに興味があるなら、やはりウィルバーを避けて通ることはできない。

あるいは、たとえばあなたがフーコー、デリダ、レヴィ=ストロース、ドゥルーズ、ラカンといったポストモダンの旗手たちをかじってみたいと思うなら、その前にまずウィルバーを一冊でも読んでみることをお薦めする。

観念論、現象学、記号論、構造主義、実存主義など、いかなるモダンおよびポストモダン思想学派をもってきても、ウィルバーがより本質的・包括的・統合的に語っていない分野はない。

もしあなたが、仏教や禅、あるいはもっと源流に遡って古代インド哲学、もしくは東洋思想全般について勉強してみたいと思うなら、やはりウィルバーをその入り口にすることをお薦めしたい。

あるいはまた、シュタイナー、カスタネダ、クリシュナムルティ、アラン・ワッツ、グレゴリー・ベイトソン、アーサー・ケストラーなど、精神世界や神智学、ニューエイジ、ニューパラダイム、ニューサイエンスといった分野に興味があるなら、やはりウィルバーを水先案内人にすることをお勧めする。

もっとジャンルを飛び越えて、物理学、医学、生物学、進化論、エコロジー、システム論、社会学、教育学、芸術論、あるいは資本論でもいい、文系・理系を問わず、とにかくあらゆる学問分野に関し、あなたが既存の理論に飽き足らず、むしろある種の疑問や問題意識をお持ちなら、ぜひウィルバーが示す方法論に注目していただきたい。



上記のような広範な「知」のジャンルに関し、あなたが包括的に把握すべく、任意の100冊を選んで読む気がおありなら、ウィルバーの著作から任意の10冊を選び、それをそれぞれ10回ずつ読むことをお薦めする。もちろん私がそれをすでにやり終わっているわけではないが。



さて、そんなウィルバーは、日本ではどのように評価され、読まれているのだろう。

ウィルバー思想の日本における紹介者の一人である岡野守也氏は、次のように言う。

「ケン・ウィルバーは、現代アメリカの、というよりは現代の世界の、もっともすぐれた思想家の一人であり、二十一世紀という海図なき嵐の海で漂流・遭難することなく航海し続けるための、今望みうる最善の羅針盤、最高の水先案内人であると思う。」



私も岡野氏に倣ってみよう。

ウィルバーという人は、まるでエベレストのように屹立する「世界の屋根」であり、私たちが道に迷わないように打ち上げられ、私たちに常に正確な「位置情報」を提供してくれる「人工衛星」のような存在だと、私は思っている。

私たちがもしドライブ中に道に迷い、自分の今いる場所をなるべく正確に知りたいと思ったら、GPSを通して人工衛星にアクセスするのがいちばんのはずだ。

まさにウィルバー理論は、私たちが人生の道に迷ったときに、自分の正確な「現在位置」を指し示してくれるだろう。それは個人の人生にとどまらない。全人類の「現在位置」をも示唆する。そして、同時に、私たちが目指すべき最終的な目的地もだ。もちろんそれは、地理的な場所ではないし、過去・現在・未来というような単一方向の時間軸が示すものとも限らない。



今まで私たちは、地球の地図を描いてきた。おそらく宇宙の地図もかなり詳しく描いてきただろう。歴史という名の時間地図もだ。生命進化の地図も、系統樹やゲノムというかたちで描いてきた。私たちは、すでにかなり正確に、この世界の森羅万象の地図を描いているだろう。しかし、その地図には決定的な欠落がある。そこを埋めなければならないし、同時に、欠落も含め、すでに描かれた地図をも含めた、より包括的・統合的な「万物の地図」を描く必要もあるだろう。



ウィルバーがやろうとしたことはそれだ。しかもすでにやり終えた感さえある。

ウィルバーが描いてみせたものは、この世界の最も包括的・網羅的な「地図」であり、おそらくその地図の中での私たちの寄って立つ「居場所」なのだろう。しかし、それでもウィルバーはこう言うだろうが、「地図はあくまで地図であり、現地と混同してはいけない」と。



ウィルバーが描こうと試み、すでに描き終えた感さえあるその「万物の地図」は、あまりにも遠大であるゆえ、おそらく、アメリカのアカデミズムの世界でも、その「地図」の欠点・問題点を必死にあげつらい、何とか論破しようとしたり、ある意味寄ってたかって非難しようとするような動きもあるようなのだが、どんな反論も「部分」なのだ。その地図の全体像は、どのような部分的論破の試みをもってしても、びくともしない。そのような無謀な挑戦をしようとする輩は、木っ端微塵に(文字通り細かい断片に)打ち砕かれる。

それはまるで、「象」という巨大な生き物を描写するのに、ある人はその尻尾だけをあげつらい、「これは象ではない」と言い、またある人はその鼻だけを指差して「これは象ではない」と言って非難しているように聞こえる。それは、極めて不毛で空虚な議論だ。



それには理由がある。

今までの(今でもだろうが)科学がやってきたことは、全体を細部に分解し、分類し、ジャンル分けし、それぞれのジャンルのそれぞれの細部だけを取り出して、それを顕微鏡で眺め、見えるものをツギハギしたものを「全体」と呼ぶようなことだった(いや、ツギハギさえしてこなかったかもしれない)。しかも、その全体的地図世界からは、地図作成者本人が決定的に欠落していた。もちろんそれは本当の「全体」とは呼び難い。

一方ウィルバーは、地図作成者本人も含めた(主観も客観も含めた)全体地図を常に描こうとしてきた。細部も重要だが、まずは全体。各論にいく前に概論が間違っているのでは話にならない、といったところだろうか。

おそらくその単純明快な「真理」を、ウィルバーは繰り返し語っているが、人はなかなかそれを信じようとはしないようだ。これは実に困った現象だ。



さて、そんなウィルバーは、日本でどれだけの知名度があり、その著書はどれだけ広く深く読まれているのだろうか。

ちなみに本家アメリカで見ると、彼の代表作の一つ『万物の歴史』は刊行直後、全米の人文書のベストセラー第一位になったという。また、有名なところで米国前副大統領アル・ゴアは、ウィルバーの著作を読んで絶賛し、特に『科学と宗教の統合』に推薦文を寄せている。

一方、日本の副首相がウィルバーの本を読んで絶賛するといったことは、逆立ちしても起きないだろう。

ウィルバーの何らかの著作(邦訳)が、人文書のベストセラー第一位になったという話も聞かない。

すでに20冊ぐらいは出ているはずの邦訳も、そのほとんどが絶版状態のようで、大手書店の棚にずらりと揃って並んでいる頼もしい光景など見たことがない。せいぜい古書店で一冊・二冊見かける程度。アマゾンを覗けば、古本が軒並みプレミア価格になってしまっている(つまり、すでに流通在庫がない稀少本扱い)。

どうやら、ごく一部の専門家、研究者か、さもなくばよっぽどの物好き(好事家)ぐらいしか読まない、というのが実情のようだ。

これが日本の知的レベルなのだ。



先日、ビックリすると同時にがっかりし、げんなりもしてしまったことがあった。

広範なウィルバー理論の中でも、人間が意識成長を果たすうえで、あるいは世界に平和を築くうえで、誰もが避けて通れない最も基本的で最重要と思える概念のひとつに「影の投影」というのがあるが、「ケン・ウィルバー 影の投影」でウェブ検索してみたところ、真っ先に出てきたのは、どこかで聞いたことのある怪しげな人間がやっている怪しげな団体のサイトだった。

繰り返して言う、これが日本の知的レベルなのだ。



本書の大きなテーマのひとつは「眠っているDNAを目覚めさせる」ということだろう。

本書が、読んだ人の眠っているDNAを本当に目覚めさせるかどうか、今はまだ未知数だが、少なくとも、今読んでいただいている方の傍にいる人が、何かを思い出しつつある、という報告がすでに届いている。読んでいただいているご本人ではなく、その傍にいる人というのが不思議だ。
ヒトゲノム計画によって、人間のDNAのうち、たんぱく質の合成にかかわる部分、つまり肉体を構成する部分に関する解読は終了したようだ。その成果が遺伝子医療といった分野にもすでに応用され始めてもいるだろう。

ところが、たんぱく質合成にかかわるDNAというのは、DNA全体の3%程度にすぎないという。残りの97%が何にかかわっているのかはいまだにわからない。そこでこの97%は、ひところは「ジャンクDNA」などと呼ばれていた。この呼び名は、日本の生物学者大野乾氏による命名らしいが、氏は「使いみちのないガラクタ」というのとはちょっと違う意味でつけたらしい。

その後遺伝子分野の研究がさらに進み、ジャンクとはいえさすがに何らかの機能はあるだろう、ということになりつつあるようだが、いずれにしろ、人間が自分自身についてさえ科学的に解明できている部分など、ほんのわずかであることに違いはない。
それを承知のうえで、それでもその眠っている、あるいは眠っているように見えるだけで、実は何らかの機能を果たしているかもしれないDNAを明確に機能させるにはどうしたらいいか、といった無謀なことを、あえて考えてみよう。

小説では、そのあたりはあえて詳しく書かなかったが、ここで少しばかり科学者の言い分を援用してみたい。
筑波大学名誉教授で日本のバイオテクノロジーの第一人者である村上和雄氏は、人間の眠っている遺伝子をオンにし、潜在的な能力を目覚めさせる方法として、次のようなことを提案している。


○試練を前向きにとらえて乗り越える
○立派でなくとも、小さい目標を持つ
○あえてぎりぎりのところまで自分を追い込んでみる
○積極的に人との出会いを求める
○笑う、感動する、感謝する、愛する、祈る
○環境を変える(安楽な環境から過酷な環境への変更も含む)
○強い志や使命感を持つ
○利他的な活動をする(ボランティアなど)
○チャレンジし続ける(成功・不成功に関係なく、プロセスが重要)
○人と違う部分を引き出して伸ばす
○常にワクワクを考え、イキイキと生きる
○何事も単独の断片でとらえるのでなく、連鎖や相互関係でとらえる
○科学を絶対視せず、目に見えないものにも関心を向ける
(サンマーク出版刊「遺伝子オンで生きる」より)


これらの項目に共通するのは、脳にいかに刺激を与え、活性化させるか、ということのようだ。その刺激として、「自分で自分に試練を与える」とか「自分で自分を追い込む」とか「あえて過酷な環境に身をさらす」といった修行めいたことも含まれているのがミソだ。その理由については小説の中で取り上げたので、ここでは触れないが、実は小説の重要なテーマのひとつでありながら、このリストに載っていない決定的な項目があると思うので、それだけはここで挙げておきたい。

人間の脳を活性化させ、眠っているDNAを目覚めさせるのに、もっとも有効かつ有意義な取り組みであると著者が考えているのは、一言で言うと「地球と絆を結ぶ」ということである。やや抽象的なので、具体的に言うと、休みの日に自然の中に出て行って、キャンプを張るといったことでも何でもいい。普段は都会の暮らしどっぷりという人であればあるほど、もちろんリフレッシュにはなるだろうし、実はそれ以上の重要な意味合いを、著者は考えている。

著者のチャネリング・ソースによると、「文明が自然と共存できる境界線を超えてしまったとき、その文明は滅ぶ」という。過去に文明が滅んだ原因は、例外なくそれだという。

現代文明が滅ぶかどうかはわからないが、かなり境界線を超えつつあるのは確かではないだろうか。
現代文明は、「エコロジーかエコノミーか」といった大きな葛藤を抱えているようだ。おそらく、葛藤のどちらか一方の極に振り切れることは、最終的な解決策ではないだろう。

エコノミーに振り切れると、どのようなカタストロフィーが訪れるかを、私たちは3.11でイヤというほど味わったはずだ。しかし現状の考え方でのエコロジーに振り切れることも答えではない。どちらに振り切れても破壊的だ。現状の社会体制ではエコロジーとエコノミーの両立は難しい。
ところで、そもそもなぜ人間は眠っている遺伝子をオンにしたがるのだろう。現状を超えて変化を求める欲望とは、そもそもどこからくるのか。上記のリストを実行に移すことは、決して楽な生き方ではないはずだ。しかしそれを選び取ろうとする願望が、確かに誰の中にも息づいている。人類が滅亡を回避し、地球と真の絆を結び、エコロジーとエコノミーの葛藤にケリをつけられるかどうかも、実はこの隠された願望にカギがあるのではないかと、著者は密かに思っている。

ヒンドゥー教のヴェーダーンタ(古代インド哲学の主流派)の古い物語に、こんなのがある。

ある男が、悟りを啓いた賢者の許を訪ねる。賢者は教えを簡単に要約して説明する。あなたの高次の「自己」は、ブラフマン(宇宙を総べる根本原理)とひとつである。ブラフマンがこの世のすべてを創造するのだから、あなたの高次の「自己」が一切を創造するのである。

自分と創造主(神)が一体であることを確信した男は、帰り道、象に乗った調教師と出くわす。男は、もし自分が神なら、象は自分を傷つけることはできないはずだと思い、道の真ん中に立ちはだかる。象の調教師は「そこを退け!」と怒鳴り続けるが、男は動こうとせず、結局象に踏みつぶされてしまう。男は、足を引きずりながら賢者の許へ戻り、自分と神はひとつのはずだから、象は自分を傷つけるべきではなかった、と説明する。すると賢者が言う。

「もちろんそうです。あらゆるものは確かに神です。それで、神がそこを退けと言ったとき、なぜ言う通りにしなかったのですか?」

「ハイヤーセルフ」という言葉がある。日本語では「上位自己」とか「高次の自己」とか「超自我」などと訳したりする。もちろん「自己」とか「自我」とは自分自身のことだが、それでは「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」という言い方はできるだろうか?


ラムジーさんは、ハイヤーセルフについて、こんなふうに語っている。

ハイヤーセルフとは、個人の自我を超えたところにあります。
ここに二人の人間がいるとします。その二人の関係性は、恋人、夫婦、兄弟あるいは親子、何でも構いません。その二人の間にある問題が発生したとします。二人は、そのことについて、何時間も、場合によっては何日も、あるいは何ヶ月も、十分に話し合いを続け、ついにある解決策に到ったとします。それは、どちらかの立場を優先し、どちらかを捨てるということではなく、あるいは、お互いに妥協するわけでもなく、どちらかの意見にもう一方が承服するわけでもない、そんな解決策だったとします。それはお互いにとって、最良の策であり、あらゆるアイデアの上位に立つものです。そうした解決策が、長い話し合いの末、まるで雷に打たれるようにして二人の頭の中に、ほとんど同時にひらめいたとします。一人であれこれと思い悩んでいては、絶対に出てこなかっただろうと思えるような解決策だと二人とも納得しました。さて、この解決策はいったいどこからやってきたのでしょう。自分の中から沸いて出たというよりも、まるで自分を超えた何かからもたらされたと、二人とも思えてなりません。つまりこの解決策は二人の人間の「中」にあるのではなく、二人の「間」にあるといえます。これがハイヤーセルフです。


つまり、ハイヤーセルフとは、個人の中の狭い自我の外にある、自我を超越したところにある、しかし紛れもなく自分自身と繋がっている意識、と言ったらいいでしょうか。

人が一人増えて三人になったとします。同じように三人が共通に抱える問題の解決策が、三人の自我を超えたところからもたらされたとします。これが仮に百人になった場合も、同じことが起きる可能性はあります。

このように、個人の意識は、ハイヤーセルフを媒介として無限に広げていくことができるのです。全人類が共通に抱える問題に対して、たった一人の個人がその解決策を見出すこともできます。また、地球を外側から眺めるような、宇宙的視点にまで意識を持っていくこともできないわけではありません。

象やその調教師も「神」であることに思いが至らず、象に踏みつぶされてしまう男は、ラムジーさんが語るハイヤーセルフとは対極にあるような意識状態と言えるだろう。
では、たとえば「ファシズム」のような現象はどうだろう。ヒットラーという一人の狂人の熱狂が伝染するようにして多くの国民の間で合意が形成され、あのような凶行に及んだと捉えるなら、それもハイヤーセルフのなせる業なのか?


象に踏みつぶされた男の頭の中の「神」は、明らかに「ドグマ(独善)」だ。もちろんドグマは個人の意識をどんどん狭めていく。ドグマが集団化すると「イデオロギー」に発展する。「ファシズム」はもちろん究極のイデオロギーだろう。「ドグマ→イデオロギー→ファシズム」という流れが、どうやらありそうだ。人間の意識をどんどん狭めていくものが、どんどん広く流布するというのは恐ろしい話だ。

一方、ハイヤーセルフという概念は、個から出発してはいるものの「超個」に向かうものであると言えそうだ。
ケン・ウィルバーは、上記のヴェーダーンタの物語を引き合いに出し、「より高い<自己>」との同一化だけで意識の拡大を語ることの危険性を指摘しつつ、ブラフマンとの同一化の筋道を次のように巧みに表現している。


「コミュニケーションからコミュニオンに、コミュニオンからユニオンに、ユニオンからアイデンティティ―至高のアイデンティティ―に・・・」
訳すなら「意思疎通から交わりに、交わりから合体に、合体から同一化―至高の同一化―に・・・」といったところか。この筋道がいかに遠く困難で、その到達点がいかに究極のものかは想像に難くない。

もちろん、この筋道に「私のハイヤーセルフ」「あなたのハイヤーセルフ」などという言い方は成立しない。


「科学か非科学か」の水掛け論を超えて(2013年3月31日のセッションより)

このときたまたま、世界的に有名なある宇宙物理学者(仮にS氏としておく)の本を読んでいた。科学的なるものと科学的ならざるものを徹底的に比較検討している本だ。

唯物論の立場をとる科学者が非科学を批判している本はいくらでもある。いわゆる心霊現象だのUFOだの超能力だのという、現在の科学的パラダイムにはうまく収まらない現象を、唯物論者たちはもっぱらその科学的パラダイムで検証しようとする。それに対して非科学的現象の擁護者(信奉者?)たちは、そうした現行の科学的パラダイムではないもので現象を説明しようとする。両者の議論は、うまく噛み合いようがない。確かに、非科学的現象の擁護者(実践者?)たちの中には、こうして宇宙的存在と親しく交わっている著者でさえ、思わず眉に唾をつけたくなるような胡散臭い連中もいる。しかし、そうした連中だけをあげつらって批判するなら、それはフェアな議論とはいえない。

S氏は、一般的に(興味本位で面白おかしく)流布している手に入りやすい情報や事例、人物だけをことさらに取り上げ、その陣営に反論するのに援用してくる「誰々がこう言っている」式の引用は、どの顔ぶれもその道の権威だが、明らかな唯物論者たちで、それがさも唯一のまっとうな科学的知見であるかのような印象を与える書き方をしている。どうやらS氏は、永遠に続く水掛け論に、一方が一方を論破するかたちで最終決着をつけたいようだ。これもフェアな比較検討とは言えない。

しかし、どちらの陣営に属するにしても、本物は偽物の陰に隠れていて、見えにくい、手に入りにくいという実情があるのではないだろうか。なぜなら本物は、二つの陣営に分かれて(つまり分離した状態で)、延々と水かけ論をやり続けるようなことには乗っからないはずだからだ。真実を知るには、そこから一歩踏み出る必要があるだろう。二元論的論戦から一歩踏み出ていて、その立場を崩さない人間は、論戦の渦中にいる人間からは当然その存在を認知しにくいはずだ。もともと、「客観的に感知できない現象は存在しない」としておきたい唯物論者にとっては、一歩踏み出ている人間はいないに等しいかもしれない。

さて、S氏がもともとガチガチの唯物論者だったら、著者はハナから彼の本を読もうとは思わなかっただろう。しかし、著者の認識では、彼は単なる唯物論者ではなく、純粋に科学的な立場をとりつつ、この物理世界を描きながらも、その中にほんの一瞬でも、時空を超えた異次元世界を(単なるオカルトにならずに)垣間見せることができる、類稀な科学者だと思っていたのだ。ところが実際に読んでみると、彼が森全体を議論の俎上に載せようとするときに、いったいどのような木を何本持ってきているのか、それが本当に対象とすべき森に生えている木なのかどうか、極めて疑わしい。そして批判の仕方も、(そういう木を相手にするとそうなってしまうのだろうが)いかにも唯物論者がふっかけそうな、言いがかりに近いような悪意を感じる(全部ではないにしろ)。信頼し、期待もしていた科学者だっただけに、著者はすっかり鬱屈した気分になっていた。

そんな気分で始まったこの日のセッションのお相手はラムジーさんだった。


●(空子)AKは、最近何となく塞ぎ込んでいるようですが、原因は何ですか。

AKさんに少し邪気が入っているようです。エネルギーが下がっています。


●(空子)原因は何でしょうか。

唯物論です。


●(空子)本の読みすぎということですか。

ある程度仕方がないでしょう。AKさんだけの責任ではありません。


●(空子)邪気はどのようにしたらなくなりますか。

もともとAKさんは科学的唯物論に対してさえ懐疑的な精神を持っているので、それほど深く感化されることはありません。
科学的唯物論は、普遍的な再現可能性のみ重視し、個人のリアリティを尊重しません。そのことは、よい場合も悪い場合もあります。よいも悪いも、唯物論はそのようにして発展してきました。


●(空子)我々は邪気からどのように身を守ったらよいのでしょうか。

肉体をまとっているあなたたちの強みでもあり、弱みでもあるのですが、肉体がある種の鎧になって邪気を入り込ませないという強みがある反面、いったんまともに受けてしまうと、振り払いにくいという弱みもあります。感じることが前提です。感じれば避けることができます。地面に空いた穴と同じで、見えていればよけられます。感じて対処する、というのが基本です。


●(空子)人間が神になったように振る舞うことの大切さを説く人がいますが、このことについてどう思われますか。

人間の中には神的な要素があるので、人間が神のようになることは一面の真理ではあります。しかし、基本的には人間が人間になるのです。今あなたたちは、自分自身をなるべく狭い枠に閉じ込めようとしています。その一つが唯物論です。そうした枠を取り払っていくことが、人間がより人間になっていくということです。


●(空子)では、どうしたらその枠を外せるのでしょうか。

たとえば、盛んにやられている宇宙開発。人間が地球を飛び出て、宇宙にテリトリーを広げようという試みは、人間の枠を超えようという試みでもあります。今それは、もっぱら唯物論的に行われていますが、他の方法もあります。今AKさんが、意識の領域において、それをやろうとしているのです。唯物論的抵抗感が、AKさんを常に引き戻そうとしていますが、彼の知的好奇心はそれを上回っています。すなわち、人間が、自分で自分にはめてしまった枠を超えていくためには、意識の拡大が必要です。いずれにせよ、人間が宇宙に出ていきたいのであれば、意識をそこに持っていかない限り、肉体をそこへ持って行くことはできません。逆はあり得ないのです。


●(空子)人間がより人間になっていくということは、どういうことですか。

一言で言えば、分離ではなく統合が起きるということです。どんどん分離され、狭い範囲に閉じ込められた状態が人間なのではありません。日本語の「人間」という言葉は「人の間」と書くように、狭い枠に閉じ込められた人間同士の間、いわば人と人との間に無限に広がる空間こそが、人間の本来あるべき場所なのです。ハイヤーセルフとはそこにあるのだと、以前お話ししました。


●(空子)ではハイヤーセルフと統合されることが、人間がより人間になっていくということですか。

そのように考えてもらって結構です。
たとえば、皮をむかれ、食べやすいサイズに切り分けられたお皿の上のリンゴが、リンゴであるということもできます。しかし、真っ赤な皮がついた実が枝にぶら下がったリンゴの木全体を、リンゴであるということもできます。どちらがよりリンゴらしいと感じるかは、個人差があるでしょう。しかし、お皿の上のひとかけらのリンゴだけを見て、これ以外の状態はリンゴであるとは認められないというなら、それは科学ではなく科学的イデオロギーです。



※やや混乱し、鬱屈した気分でいる著者とは裏腹に、ラムジーさんは何と冷静に、問題を的確にとらえ、目の覚めるような見事な表現で料理してみせてくれたことか。著者のどんよりした気分は、いっぺんで吹き飛んでしまった。


この日は、いつものセッションとは様子が違っていた。
セッション中の著者の頭に、突然あるひとつの発想がもたらされた。それがどこからもたらされたかは、はっきりしない。自分の内側から湧いて出たのか、それとも外側から訪れたものなのか・・・。

いずれにしろ、著者はこの瞬間を心のどこかで待ち望んでいたフシがある。表に出したくていつもモヤモヤしているのに、出し方がわからない。何かうまい出し方を考えないと、いくらか残り滓が残ってしまうだろう。そうなると、そのことの全体像ではなくなってしまう・・・。
しかし、この日は「今こそ、それをやりなさい」と、ラムジーさんに背中を押されているのを感じていた。


「あなたと繋がった状態で、それをやるのですか?」

「そうです」


つまり、著者自身が単独でそれをやるのではなく、ラムジーさんとともにやる。まるで子どもが初めてのスピーチコンテストで、「これでいいの?」とばかり、会場にいる親の顔をチラチラと気にしながらしゃべるようなものかもしれない。
しかし、後で読み返してみると、自分がしゃべった内容には思えない。文章から聞こえてくる声は、まぎれもなくラムジーさんの声なのだ。
「ラムジーさんとは、オマエが勝手に作り出した幻覚だからだよ」と人は言うかもしれない。それならそれでかまわない。


さて、AKは今、一つの困難を乗り越えようとしています。
彼は今この瞬間に、このことを言い残しておかなければならないと感じています。
それは、長年の間、非常に重要で、いつか機会があったら何らかの形で書き残しておかなければならないと感じながらも、うまい説明の仕方が見つからないために、先送りにしてきたことなのですが、それにようやくある種のインスピレーションがもたらされ、今この時だと感じたことでもあります。私たちもAKの表現の試みに加勢したいと思います。


それは、因果と因果論の違いについて、そして、因果論から脱・因果論へ向かう試みについてです。非常に難しい概念なので、例を引いてご説明しましょう。

たとえば、AKの頭は禿げています。AKの父親も、そのまた父親も禿げていました。K家が代々持っている遺伝的体質を受け継ぎ、その結果AKも禿げた。そう言うとき、これが「因果」の考え方です。つまり、過去に原因があり、それがもとで今ココに一つの結果が表れたという考え方です。この考え方がさらにエスカレートし、今起こっていることは過去にそのすべての原因がある。親が禿げているならば、その子どもは必ず禿げる、と言い切ってしまうならば、それは因果論、つまり一つのイデオロギーになります。

頭が禿げるという現象は、その人の親が同じように禿げていたということに関係しているかもしれない、と考えることが「イデア」です。
人間には遺伝子というものがあり、それが親から子に受け継がれ、その結果親の持つ体質を子どもも受け継ぐ、と考えるのが「イデオローグ」です。
今この人がこのような状態にあるのは、そのすべての原因がその人の親にあり、その人の親がそのような状態だったのは、そのまた親にすべての原因がある、と考えるのは「イデオロギー」です。


さて、仮にAKの子どもが禿げなかったとしましょう。K家は先祖代々禿だったけれども、AKの子どもはたまたま禿げなかった。人間は、遺伝的な要因だけで禿げるのではないかもしれない、と考えるのがイデアです。
人間は遺伝的な要因だけで禿げるのではなく、食べ物やストレスなど、後天的な環境要因でも禿げる、と考えるのがイデオローグです。
人間は、遺伝的な要因で禿げるのであって、そうでない原因で禿げるのはごく稀であり、それはほとんど考慮するにあたらない。また、遺伝的に体質を受け継いでいながらも禿げない人は、一種の突然変異であり、そんなものは遺伝学の基礎を揺るがすほどのものではない、完全に無視できる例外中の例外である、と考えるのがイデオロギーです。


さて、ここで注意していただきたいのは、真理を求めようとする人は、イデアとイデオローグの領域に留まろうとし、よっぽどのことがない限りイデオロギーに近づこうとはしないということです。イデオロギーに近づきすぎた瞬間、あなたたちはある種のドグマに陥ります。そして実は、このドグマこそが、葛藤を生むのです。

「私は愛のない人間である。私には人から愛される資格がない。他の人は、普通に愛し合うけれども、私は例外中の例外だ」

そのようなドグマに陥ったとき、拭い難いほどの葛藤が生じるのです。
先に、人間が支配のコントロールから自らを解放し、直感や第六感と呼ばれるものを目覚めさせる第一歩は、唯物論あるいは唯物史観を乗り越えることだと申し上げました。
唯物論や唯物史観、あるいは因果論も一種のイデオロギーです。
イデオロギーの甘い罠に囚われてしまうことは、他人のコントロール下に自らの身を置くことであり、イデオロギーを受け入れることによって生じるドクマに陥ることで、無用な葛藤を背負い込むことを自らに許してしまうことです。
今あなたたちがもっとも陥りやすいイデオロギーによるドグマを申し上げましょう。それは「3.11に代表されるような世界各地で起こっている天変地異は、人間のカルマが引き起こしている。つまり、人間がもともと持っている原罪に対する天罰である」という考え方です。


ところでAKは、自分が禿げていることに何の負い目も引け目もないようです。父親や祖父が禿げていたから自分も禿げたのだとばかり、先祖を恨むようなこともありませんし、カツラを被ってそれを隠そうとしたり、養毛剤で何とか食い止めようともしません。むしろ逆に丸坊主になることを好ましく思っているフシさえあります。それは、もしかしたら、自分が過去に僧侶か何かをやっていた、あるいは自分には何か僧侶的な魂があるのかもしれない、という思いの現われかもしれません。いずれにしろ、通常、人が否定的にとらえる事柄を、肯定的にとらえているわけであり、遺伝的体質という因果論とはまったく別の意味合いを、自分の体質に対して見出しているということです。

いわば、こうしたイデオロギーのドグマにとらわれない自由な発想あるいは自己感覚こそが、自分の魂の本来のあり方を見出すのに役立ち、その後のその人の運命を決定づけていくのです。これが脱・因果論に向けての第一歩なのです。

だから、今地球に起こっていることを、あなたたちが自分たちの今までの行いに対する報いと考え、さらなるイデオロギーのドグマにはまり込むのではなく、これを機に地球と共に生きる方法を見直し、新たな文明のあり方を模索し、実践していくなら、あなたたちは今まで自分たちを縛りつけてきたイデオロギーのドグマから自分たちを解放し、葛藤を乗り越える第一歩を踏み出したことになるのです。


※真理を求め、現象に対して厳正であるはずの科学者が、政治的な「忖度」に出くわしたとき、イデアとイデオローグの領域に留まろうとせず、イデオロギーに限りなく近づいてしまう様を、私たちは3.11以降にイヤというほど見せられた。たとえば、年間20ミリシーベルト以下の被曝だったら、健康にまったく問題ない、という言い切り方は、科学的イデオロギーに大きく傾いてはいないだろうか。

この基準にもとづいて避難指定が解除されても、「戻るべきか、戻らざるべきか」という大きな葛藤は、避難者の胸中から消えることはない。
この葛藤にどのような終止符を打つのかは、「自己責任だ」と言う人がいる。誰がマッチで火をつけたのかはさておき、その火によって立った煙を避けるのか避けないのかは、自己責任だというのだ。実のところ被曝者、避難者は何の責任を取らされようとしているのだろう。


モーガン・フリーマンの「時空を超えて」は、わりかし好きな番組で、ほぼ毎回観ている。

今回の「宇宙人はどのように思考するのか?」も録画して観た。

ただ、今回だけでなく、私として残念なのは、宇宙人だの人間の心だのという話題を扱う場合、どうしても物理的現象に主眼が置かれてしまうという点だ。

今回も、まず宇宙人というものがいるとしたら、人間と違う思考法を用いているに違いない、という前提に立っているようだが、なぜ違うと思うのだろう? なぜ「同じかもしれない」という前提を排除するのだろうか?

宇宙の中で、人間だけが特殊? 地球だけが例外? まずそこの点にひっかかる。


基本的には、人間の思考方法も宇宙人の思考方法も変わりはないのではないか。

どちらかと言えば、地球人の思考方法は、宇宙人の思考方法の一部、あるいは「雛形」と言った方がいいのではないかと、私は思っている。もし宇宙人がわれわれ地球人より高度な知性を持っているなら、彼らの思考方法は、われわれの思考方法と違うのではなく、それを内に含んで、それを超えるものであるはずだからだ。

つまり、むしろ人間の方が、地球において、宇宙人の思考方法を踏襲している、と考えるべきなのではないかと思っている。


もう一つ、植物やタコ、アリなど、人間とは別の生物の思考方法・・・

といっても抽象的な思考ではなく、状況判断とか同族同士のコミュニケーションといった方がいいようなものだが・・・

それがどのようなメカニズムで発生しているのかが解説され、人間の思考法と比較されている。

このような方法においては、「似ているところもあれば、違うところもある」という結論にならざるを得ないだろう。比較対象に何をもってこようが、結論は同じ気がする。


言語の成り立ちに関する実験も然りだが、結局のところこの番組は、「宇宙人の思考法」ではなく、「人間の思考法とは何か」について、他の生物を引き合いに出しつつ、探求している番組ということなのだろう。

もし本当に、時空を超えた世界に存在する「宇宙人」というものの思考法を探求したいのであれば、人間の思考そのものが一度時空を超えてみる必要があるだろう。

まあ、そこまでは望まないにしろ、これは今回だけでなく、この番組全般に言えることだが、番組の根本思想が、相変わらず唯物論的なものの考え方に限定されているというのが、私にしては不満の残るところだ。

唯物論的なものの考え方とは、簡単に言うと、「脳が人間の意識を作り出している」という考え方だ。いまだにほとんどの科学者がこのような考え方を大前提にしているようだ。

脳は、意識の「器」であるはずだ。そこには神経細胞があり、ニューロンやシナプスがあり、いくばくかの電気信号が発生しているかもしれないが、そうしたメカニズムが意識を生み出しているって?

そうしたメカニズムを持つ脳を、しばらく太陽に充てておけば、そのうちそこに意識が発生する?

器が中身を作り出すって? ならば、ビッグバンを作り出した「器」とは?

私は小説の中に、次のような笑い話を導入した。

「ある男が古いラジオを分解して、一つひとつのパーツを熱心に眺めては、磨いたり、組み合わせを試してみたり、匂いを嗅いでみたり、場合によってはちょっと舐めてみたりということをしています。何をしているのか訊ねると、男は言います。

『いやあね、エルビス・プレスリーって、どんなだったっけと思ってね。』」

人間の脳を解剖しようが、タコの生体メカニズムを解明しようが同じことだが、器について、「ああでもない、こうでもない」と科学的知見を積み重ねれば、「思考とは何か、意識とは何か」という問題の答えに辿り着けるとする考えは、まさに「ラジオを分解すれば音楽の正体にたどり着ける」とする考えに似ている。

「脳が人間の意識を作り出す」という考えに基づくなら、「ラジオを組み立てれば、やがてそこから音楽が聞こえてくるはずだ」ということにもなりかねない。

確かに、そのような考えに基づくなら、人間の脳と同じようなメカニズムを人工的に作り出して、それに複雑な情報処理をさせて(つまり学習させて)おけば、そのうち人間の脳を超える能力を発揮し、人間をコントロールするようになるかもしれない、という発想も生まれるだろう。

AI問題に関して言えば、「人間がそう望み、そのように仕向けるのでない限り、AIが人間に匹敵する意識や感情を持つことはない」というのが、私の考えだ。

ケン・ウィルバーはこう言っている。
「真の意識の理論への最初のステップは、意識が有機体の中にあるのではないという認識を持つことである。」



「私はどの星から地球にやってきたのか?」

この疑問を心に秘めている人は、意外に多いようだ。

昨日の講演会でも、参加者からこの疑問が呈された。

「私はどこから来て、どこへ帰ろうとしているのか・・・」

この疑問は、つまり自分の魂の起源が地球ではないどこかにあるのかもしれない、という自己感覚でもあるだろう。

かくいう私も、子どものころから、地球に対してなのか、それともこの人間社会に対してなのかわからないが、漠然とした「居候感」あるいは「仮住まい感」といったものを抱き続けてきた。

自分の本当の居場所は、ここではないのかもしれない・・・

今現在が決して不幸なわけではない、満たされていないわけでもない、でも・・・

この居心地の悪さ、この落ち着かない感じは何だろう・・・

ここは、自分に与えられた「かりそめの居場所」なのだろうか・・・?

ならば、本当の「ふるさと」とは・・・?

私が・・・あるいは私の魂が・・・いつか帰る場所・・・?

アメリカの心理学者スコット・マンデルカーは、子どものころからいつも「説明できないような、ひりひりする孤独」を感じていたという。その正体を探るべく、彼は西洋の基本的な心理学と東洋の宗教との統合を目指した。
その結果、純粋に心理学の博士論文として、ある独自の調査結果をまとめる(徳間書店刊「宇宙人の魂をもつ人びと」)。それによると、約1億人、つまり全人類の60人から70人に一人は、自分の魂が「どこか別の場所」(つまり宇宙)からやってきている、というリアリティを持っているというのだ。


あなたは、この話を聞いて驚くだろうか? 1億人という数字は多いと感じる、それとも少ないと感じる?

この調査結果だけでも、充分に議論する価値があるが・・・

「私たち地球人の魂は、例外なくその起源が宇宙にある。私たちは全員ETである」

と聞いたら、あなたはどう思うだろう。共感か、それとも全面否定か?

「冗談じゃない! 魂というものがあるとして、自分の魂の起源は地球だ!」とあくまで言い張る人には、一言だけ・・・「地球も宇宙の一部です」


こう考えてみたらどうだろう・・・

私たち(あるいは私たちの魂)が完全に地球と同化するのではなく、地球に対してある種の疎外感や孤立感を抱き続けているとしたら、その疎外感や孤立感は、私たちが忘れてしまっている大切な記憶を思い出すきっかけになりはしないか、ということだ。なぜ、何の目的で、私たちの魂は地球にやってきたのか、という記憶・・・。


この「ET感覚」とも呼ぶべきものは、人間という種の進化の青写真の中に、すでに用意されていたものなのかもしれないと思うことがある。それは、他の動物の進化の青写真とは、まったく別のものだろう。動物は、星空を見上げて、祈ったり感傷的になったり冒険心を駆り立てられたりはしない(おそらく)。

「おしなべて、あなたたちの信仰心は、魂の故郷に対する望郷の念なのです。」(ラムジー)


さて、ここからは、いくばくかでも共感してくれる読者に向けての話になるだろうが、冒頭の疑問に戻る。

「私はどの星から地球にやってきたのか?」


ラムジーさんによれば、宇宙の魂は、様々な星を経由して地球にやってきたという。今現在地球にいる70億からの人間の魂は、地球ツアーの真っ最中というわけだ。プレアデス星人だというラムジーさんは、今現在プレアデスツアーをしている、ただそれだけ。

いつ、どの星のツアーに参加するかは、魂の自由。

だから、魂の起源となる星を特定することにあまり意味はない。

それでも、「自分の魂は、地球にやってくる前、どの星にいたのか」知りたいあなたのために、地球に多く来ているという「~星人」あるいは「~星団」の特徴を、あえてラムジーさんに聞いてみたことがある。(思い出すヒントとして・・・)

そのときのラムジーさんの答えは、こうだった。



〇プレアデス:愛・友情・イメージ

〇オリオン:経験・輝き・厳格さ

〇ヴェガ:虹・微粒子・活発さ

〇シリウス:秩序・学び・形作る

〇アルクトゥルス:遊び・冒険・チャレンジ・ゲーム

〇アンドロメダ:悟り・円環・サイクル・融合




さて、おそらくあなたはこう言うだろう。

「私は今まで様々な本を読んできました。それら一冊一冊が私にとってひとつの経験であり、それらすべてが私の血肉になっているでしょう。でも、特に影響を受けたのは、この本です」

あなたの魂はこう言うだろう。

「私は今まで様々な星でツアーをしてきました。そのどれもが私にとってひとつの経験であり、それらすべてが私の血肉になっているでしょう。でも、特に影響を受けたのは、この星でのツアーです」


私たちは「地球」という本の愛読者であり、「地球」というアトラクションの列に何度も並び直している。


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